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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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尊氏 天皇から名前を一字貰う

1333年5月 北条高時自害により、鎌倉幕府は滅亡した。6月4日 京都へ戻った天皇はまず尊氏を呼びました。そして自分の名である「尊治(たかはる)」の一字を与え、「尊氏」と名乗らせることに。

※今まで紛らわしいので尊氏と書いていましたが、この時までは高氏でした。

尊氏は超感動!「オレ、一字貰っちゃったよ!」と、直義らに興奮して話したんだけど、直義と高師直はかなりシラけ気味。直義は「名前をもらったくらいでばかばかしい。後醍醐天皇はめちゃくちゃ策略家ですよ!?裏があると思うので気をつけてくださいよ!」と忠告。高師直も「そうだ!だいたい尊氏殿は人が良すぎる。後醍醐天皇は今までにも色んな悪巧みをしてた人ですぜ?あまり単純に喜んでばかりはいられないですよ」と忠告。気がいい尊氏は「そうかなぁ?でもオレあの人嫌いじゃないんだけどなぁ。2人ともすぐに人を疑うんだから!」と一人ブツブツ言ってました。


1334年 建武の新政スタート

後醍醐天皇は早速天皇中心の新政に向けてスタートしました。まず「関白はおかない!」「今後院政はやらない!」と宣言し、「全て天皇の私が行う!」としたのです。ですが新政を行うには\お金\が必要。後醍醐天皇は北条氏の領地を全部没収しました。そして論功行賞の時、その土地を自分と皇族らで独占してしまい、武士らに恩賞を与えなかったのです。

ちなみにこの時尊氏29歳 義貞33歳 正成40歳でした。 朝廷はなぜ武士にご褒美をあげなかったのか? 後醍醐天皇はなぜ鎌倉幕府を滅亡させてくれた武士に恩賞をあげなかったのか?それは貴族・公家らに根付いている「公家社会が世の中の中心で一般庶民はオレらに奉仕してりゃいいのさ」という気持ちからでした。

そもそも公家らは武士を軽侮しまくっていました。さらに武士の中でも身分や地位にかなりこだわっていました。尊氏・義貞・正成の3人の恩賞も、最初っから最後まで朝廷のために戦い続けた正成がめちゃくちゃ恩賞が少なかった。功があっても元々の身分が低いのでたいした恩賞をもらえなかったのです。

結論からいうと、この論功行賞は大失敗でした。150年間も政治から離れていた朝廷がいきなり政権を握ったんだから当然かもしれませんが、後醍醐天皇が人生の大部分を賭けてやっとこさ実現した天皇の政治が、数年でガタガタになった原因はこの論功行賞にあるのです。

そもそも鎌倉幕府が滅んだのも「恩賞の不平」でした。蒙古襲来の時に御家人に領地を与えることができなかったのが原因。だからこそ、後醍醐天皇が立ち上がった時に数多くの御家人が幕府を背いて戦ってくれた。武士らは恩賞として領地が欲しい。ただそれだけだったのです。

ところが幕府はせっかくゲットした北条氏の領地を武士にはあげずに、まず天皇→皇族→公家の順番で分け与え、余った領地を蹴鞠がうまい者・白拍子・遊芸の巧みな者・官女・僧侶・さらには朝廷御用達の遊女といった人々にあげてしまい、武士にあげる分がなくなっちゃったのです。これじゃあ武士が怒るのは当たり前。

ですが朝廷の考えは全く違うものでした。北畠親房という公家の超一流の学者でさえ「北条高時が滅んで天皇の運が開けたのは武士どものおかげではなく、神の意思である。だいたい武士というのは朝廷の敵である。朝廷の味方をしただけでお前らの家を滅ぼさないだけでも感謝するべきである。

もし恩賞を望むのであれば、これからも朝廷に仕えるべきであり、神の意思によって成り得た天皇の政治を武士らの功と思うなどずうずうしいにも程がある!」と超一流の学者までもが武士をバカにしくさっており、これが当時の公家社会の共通した気持ちだったのです。

公家一般論として「この国の正統な支配者は天皇である!よって天皇の仕えている公家らが最も尊い者なのであーる」というのが当たり前のことだったのです。ですから死に物狂いで戦った武士らをほったらかしにして、自分達が領地をゲットするのはごく当然で、遊女や遊芸のうまい人たちにも所領をあげるのもいけないこととは全く思わなかったのです。


武士の不満がたまりはじめる

新政は始めから武士にとって不満タラタラのものとなりました。土地は全て天皇家のモノだよーんと、武士にはあげなかった。赤松則村なんて、もともと守護だったのに「ご褒美」てことで、なぜか荘園の管理人に格下げというわけのわかんないご褒美に。尊氏かかろうじて武蔵・相模・伊豆を所領にもらい、新田義貞は播磨と上野。

楠木正成は河内守という役職だけ。尊氏と義貞は武士としてまだ恩賞としてはいいものをもらったけど、楠木正成は全然いい恩賞がありませんでした。円観(えんかん)ら、後醍醐天皇に可愛がられていた僧も、島流しされてたトコを京都に呼び戻されて、エコヒイキされまくりお金貯まりまくり。武士達の不満はつのりまくり。

恩賞は、皇族・公家・寺院の順番で配られ、武士は3ヶ月以上も遅れた上に少なかった。幕府を倒したのは武士なのに、京都でのほほんとしてた公家や皇族が褒美が多いのはずるい!と武士は怒りまくり。やっぱ、朝廷はダメだ!と、思い始めようになってきたのです。

多くの地方武士たちが「オレは○○で、○○ってヤツを殺しましたよ!」と京都に申し立てにくるように。が、当時の武士は教養がないため、ただ土地が欲しいが為の欲望むき出しでわめきまくった。京の人々は「なんて浅ましいのかしら」とか「みっともないわぁ」と武士をますます蔑むように。

尊氏・直義らはそういう武士達を気の毒に思うように。教養のない武士たちは単純なのです。単純な武士を騙した朝廷が悪いよなぁ・・と考えるように。


尊氏を征夷大将軍にしろー!

尊氏は武士の恩賞があまりにも少ないのを同情しまくっていました。武士の方も次第に自分たちの代表者として、天皇に認められて一番多く恩賞を貰った武士である尊氏に期待を寄せるようになってきました。尊氏なら自分達の気持ちをわかってくれ、代弁してくれるだろうと思うようになってきたのです。まさに武士の期待の星でした。

そしてその期待は「尊氏を征夷大将軍に!」という声になってきたのです。直義も高師直もこの動きには大賛成!そんな動きを苦々しく思っていたのが後醍醐天皇の息子 護良親王だったのです。護良親王は以前から尊氏が武士にめちゃくちゃ人気があるのを「危ないな・・・」と感じていたのでした。ちなみに尊氏は鎮守府将軍(ちんじゅふ)という東北地方を治める鎮守府という軍の長官みたいなものに任命されました。


後醍醐悩む 護良親王なんで機嫌悪いかなぁ?

実は後醍醐天皇が隠岐を脱出して1年ぶりに京都にやってきた時、護良親王は山にこもって動こうとはしませんでした。後醍醐天皇は、会ったら最大級のねぎらいの言葉をかけなきゃ!と思ってたのに、アイツ何故来ないんだ?と不思議でした。後醍醐は大好きな廉子に相談

「なんで護良はオレ子のとこに来ないんだと思う?」「護良には大きな望みがあるんだと思いますわよ」「それは何だろうか?」「護良は一度僧の道に入ったのを還俗されたお人。世の中が静まったらもう一度仏門に戻れと言ってごらんあそばぜ♪」ふーん・・・と後醍醐は廉子の言ったとおり使いを行かせました。

護良はその言葉を聞き「このオレにまた坊主になれというのか!?オレがこの2年の間血を流しまくって戦った苦労を何だと思っとんじゃ!?だいたい主である父上のために忠誠を尽くして戦ったのはおれらと楠木一族だけじゃねーか!他のヤツラは土壇場で寝返っただけじゃねーか足利尊氏なんて最後の最後に活躍しただけで、鎮守府将軍なんかになりやがって!あいつは第二の北条高時じゃぁ!あいつが鎮守府将軍ならオレは征夷大将軍じゃなきゃ京都へ帰らんぞ!」と激怒しちゃったのです。

護良は父の後醍醐天皇が大好きでした。征夷大将軍になりたいってのは自らの野望ではなく、尊氏の野望を押さえ込み、天皇家のために頑張りたいと思ったからなのです。ですが後醍醐天皇は・・・「護良が征夷大将軍になりたいだと?廉子どう思う??」「やはり・・・。ワタクシの思った通りですわね」「そなたが申した護良の大望とはこのことか?」「征夷大将軍は大望のステップですわ。護良は自分の子供を皇太子にして自らは上皇となり院政をしたいのですわ」

「何を言っておる!あいつはまだ皇位もついていないというのに!それにワシはあいつを皇太子にしようとは思っておらん!」「ではどなたを・・・?」「わかっとるだろ?お前との間に生まれた恒良だよ。隠岐までついてきてくれたそなたが生んでくれた子であるぞ」と、こんな調子で、後醍醐天皇は廉子にメロメロだったのです。そのため護良の気持ちは全く通じずにいました。後醍醐はとりえあず護良は皇太子にはさせない。

だけど、頑張ってくれたから征夷大将軍にはしてあげてもいいな。今武士達がしきりに尊氏を征夷大将軍にしろ!と騒いでるけど、護良ならオレの息子だってことで格好もつくだろ。尊氏を牽制させるのにもちょうどいいし・・・と考え、廉子が護良を征夷大将軍にしてもいいってのをOKしてくれたので、護良の希望通り征夷大将軍に任命しました。護良は大喜びし、京都に戻ってきたのです。


阿野廉子 賄賂もらいまくり

後醍醐天皇を島から脱出させた廉子は、鎌倉幕府滅亡の立役者として発言力を増していきました。そして廉子の天皇への影響力を感じ取っていた貴族達は廉子に贈り物をしまくりました。なんせ賄賂を贈んないといい恩賞をもらえないもんだから、みんな廉子に賄賂を贈りまくり。

また自分の悪口を言った者には「あんたはアタシの悪口言ったから恩賞あげないから」と言ったりワガママ言いたい放題。武士の中にも賄賂を贈った者がいましたが、廉子は武士だからテキトーでいいか!と、賄賂をくれた武士の土地を間違って他の人にあげちゃったりしたので(ダブルブッキング)怒った武士が廉子に文句を言いに行くと「じゃあその土地を力ずくで取っちゃいなさいヨ!」とまで言ったりして武士達は大混乱。さらに政治を大混乱させた廉子。これも武士の不満を募らせる結果となったのです。

さらに島流しされてた文観も賄賂貰いまくり。家中宝物だらけとなり、その財宝を守る為に沢山の武士を雇い、犬のようにこき使いました。その数500人以上となり、「僧に犬の様にこき使われて恥ずかしい」と怒り始めたのです。


次から次へと武士を怒らせる後醍醐天皇

後醍醐天皇は「御家人」という称号を廃止しました。幕府がなくなったんだからそんな称号いらんだろ?ってことで廃止となったんですが、長い間一般庶民と区別するために地主の身分を示す称号となっていたので、廃止するならするで代わりの称号を与えればいいのに、それさえも与えずいきなり廃止にしちゃったもんだから、不満は募りまくりました。

さらに後醍醐天皇は朝廷が派遣した「国司」の権限を強くしました。土着していた武士である守護や地頭は押さえつけられまくり。「国司」には数少ない武士が任命され、ほとんどが下級の貧乏公家でした。その貧乏公家は「国司」でありながらその土地には行かず、突然お金持ち生活になったので京都に住んで遊びまくり。

自分の業務代行として貧乏時代に親しくしていたヤクザ系の人々にオマカセしちゃったのです。弱っちいのに任せたら反発があるだろうってことで、強そうなのに代行させたのです。突然「国司代行じゃー!」と、そんなヤクザまがいのヤツラに偉そうにされちゃったら反発が起きないわけがない。とにかく後醍醐天皇は次から次へと武士の不満がたまるようなコトばっか、わざとじゃねーの?と言いたくなるくらい推し進めてきたのです。


武士たちのつぶやき・・・昔の方がよかった・・・

武士達が幕府を懐かしく思うようになってきたのは当然のことでした。「高時殿の頃もむかついてたけど、今より全然マシだったのー」と思うように。武士達は北条政治に愛想をつかして後醍醐天皇の呼びかけに応じて北条をやっつけたものの、今更幕府は良かった・・・と「武士」を守ってくれるシステムであった鎌倉幕府を潰しちゃったことを後悔しまくるようになってきたのでした。


武士連中期待の星 足利尊氏 

そんな武士達の不満のより所が足利尊氏でした。何といっても尊氏は源氏の棟梁なのです。このような空気を敏感にキャッチしてるのは尊氏のブレーンの2人。弟の直義と重臣の高師直でした。武士らの心をつなぎとめるために何かしらの手立てをしていたそうです。また、武士達も自分達の親分的存在が欲しいので、源氏の嫡流である名門・尊氏に期待しまくった。

そして後醍醐天皇もそんな尊氏に危険を感じるようになってくるのです。後醍醐天皇は尊氏のご機嫌を取るために官位を与えまくった。超一流(笑)学者の北畠親房は「こないだ四位になったかと思えば、そのお礼もしてないうちに従二位になりやがった。弟の直義までもが従四位になっちゃった。いくら源氏一門とはいえ頼朝&実朝の時代に足利家なんて親族扱いもされてなかったじゃねーか!後醍醐天皇は何でそんなに取り立てるのか?怪しい・・・」と言うほどでした。


流行語大賞「バサラ」誕生!

この頃、「バサラ」と呼ばれる人たちがデビューしました。バサラとはサンスクリット語の「ヴァジャラ」を言語とするもので、いかなるものも砕く武器というような意味です。この頃のバサラとは、派手にふるまい贅沢三昧しまくる・・・という、とにかく人目も気にせず自分のやりたいことをやるぜ!というもの。バサラと呼ばれる人たちが多く誕生し、建武式目という幕府から出てる法律みたいなものにも書かれるほど「このごろバサラと言う驚くことばっかやるヤツラが出てきた。ちょっとは厳粛しなさいよ」と書かれた代表的なバサラは高師直ブラザーズ・佐々木道誉(ささきどうよ)・土肥頼遠などです。


直義 鎌倉へ

後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍にすると、続いて自分の皇子達を日本各地の「将軍」に任命しました。成良(なりなが)親王が鎌倉将軍に任命され、その親王を助ける補佐役として直義が選ばれました。(尊氏が強くプッシュした)鎌倉は武士が腰を下ろすのにもっとも適した場所だからです。が、この人選に護良親王が大反対!高師直は「あいつほんっとうるせえな!いつか殺さなきゃやべぇな」と感じるように。

ですがいくら護良が反対しても、尊氏の推薦を突っぱねるのも出来ないしなぁーと、後醍醐天皇は直義を選んだのです。直義は出発の日、「くれぐれも後醍醐天皇に騙されないように!」と尊氏に念を押したのでした。

この頃の直義の考えは「新政には武士の座る椅子がまったくないな。このような武士に対するやり方では、いつか武士達は必ず爆発する。私はその前に鎌倉へ行き、武士のための基盤を作らなければ。天皇は京都で公家らをまとめてればいいのだ。足利が鎌倉で武士を統率すればいい」というものでした。


尊氏 武者奉行所を作っちゃった

地方武士が京都に溢れまくっていたので、尊氏は六波羅を「武者奉行所」として地方武士の苦情を聞くことに。そして彼らが訴える勲功を「よし!オレが保証人になってやるよ!」と署名捺印をしまくりました。この署名捺印は武士にとって大きな効果がありました。

何といっても天皇から名前を貰った「尊氏」の印なので、朝廷は仕方なく署名捺印の書類を持ってきた武士らに恩賞を与えざるを得なくなったのです。そのため朝廷が設けた正式な恩賞の窓口には誰も行かなくなりました。どうせ行ったって適当に「あぁ・・・うん・そうだなぁ・・・」などの口ぐるまに乗せなれるだけだったら、尊氏がやってる個人的な奉行所に行ったほうがいいぜ!ということになってきたのです。とにかく尊氏が証明さえすれば、朝廷は動いてくれる。武士達はますます尊氏を尊敬するように。さらに武士達が都で待ってる間の生活費の面倒を自分のポケマネで出してあげたり。

夢窓疎石(むそうそせき)という天皇の信頼厚い僧は「尊氏は戦場では誰よりも勇敢だけど、普段は心が優しいやつよのぉ。自分の財産を惜しみなく人に与えてしまう、徳のある人物じゃなぁ」と感心したそうです。それを見ていた護良親王は「頭の悪い武士達を恩賞で釣りやがって!」と、ますます尊氏に敵意を持つのです。が、そう思っているのは護良だけではありませんでした。同じ武士である新田義貞も「オレだって源氏の嫡流だっつーのに、なぜあいつのとこばっか皆行くんだよ!幕府を滅ぼしたのはオレだっつーのに恩賞もオレよりヤツのほうが良かったし!」と尊氏にますます敵意を持つのでした。


尊氏「オレ、なんか悪いコトしたかなぁ?」

護良親王の考えは「新政とは天皇の新政だ!天皇を補佐するのは皇族と公家だけだ!武士など一切関係ない!武士とは皇族や公家にとって犬だ犬とは上の者にこき使われるモノだ!」と考えている人でした。そのため武士である尊氏を征夷大将軍になんてとんでもないぜ!と思っていました。御所内で尊氏と顔を会わせてもひたすら無視。「お前のような卑しい者とすれ違うだけでも汚らわしい」というオーラがありありと出ていました。

尊氏は武士とはいっても教養はある。根は優しく繊細だし、心配りもできる人でした。教養の部分でも文学・宗教・歌とあらゆる点で公家には劣るところはなかった。それでも「武士」というだけで、護良からしてみれば「人間ではない」のでした。尊氏は、直義は高師直にいっつも相談。「オレさぁ、まったく悪いことしてないのに、なんで護良親王はオレのこと嫌いなのかなぁ?」と気弱な尊氏は悩んでいました。

直義は「あの人は兄さんが嫌いなんじゃなくって武士が嫌いなんですよ。あの人だけじゃなく北畠親房とかあの辺の取り巻きはみーんな同じ思いですよ。いくら兄さんが天皇の信任が厚いといっても、絶対に朝廷の人間には気を許しちゃいけません」と言いました。高師直なんかは「あのバカどもは自分達では何にもできないクセに、人を蹴落とすこととかだけはピカイチだぜ?気をつけたほうがいいぞ」と言いました。だけど尊氏は「お前達はいーっつも裏ばかり見て人を信じようとしないんだなぁ。オレは結構天皇のこと信じてるんだけどな」と言い、直義・高師直は苦笑いしっぱなしでした。


護良親王「尊氏殺していいすか?」

護良は尊氏を批判しまくりでした。武士の統率者としてふるまっているのが気に入らなかったのです。尊氏より上の「征夷大将軍」を何とかゲットし、喜び勇んで京都へ帰ってきたものの、護良には居場所がなかった。というのも尊氏が京都で「鎮守府将軍」としてすでに武士の心をゲットしていたし、護良がやろうとしていることは全て尊氏がやっちゃうのでした。さらに追い討ちをかけるように後醍醐天皇は大好きな廉子の子供達をつぎつぎと登用しだしたのです。

長男の恒良親王は皇太子に任命されちゃうし、次男の義良親王は陸奥で鎮守府将軍に任命されるし、三男の成良親王は8歳だっつーのに鎌倉で一番エライ「征夷将軍」に任命されるし、ついでに大嫌いな尊氏の弟直義が鎌倉の執権になっちゃうし。護良は「これは尊氏と廉子が共謀して父にお願いしているのだな。それにしても父上も何故黙って言うとおりになっちゃってんだヨ!」と恨めしく思うように。実際尊氏は廉子が自分の子供を出世させたい!とアレコレ画策しているのを素直に協力していました。

そして護良は後醍醐に「尊氏は危ないです!奉行所で地方武士の不平不満を聞くフリをして、新政への反抗心を煽ってます!今のうちにあいつを何とかしなきゃ新政の妨げになります!」と訴えたのです。後醍醐は「ワシも同じ考えじゃ。尊氏が六波羅に奉行所をおいたと聞いたときから、ヤツは野心があると思っていた。だがヤツは武士の間で大人気だろう?だからわざと官位をあげて油断させておったのじゃ。そちがそのつもりなら、密かに兵を集めヤツを殺せ!」と命令したのです。


1334年10月 護良(もりなが)親王事件

後醍醐天皇に尊氏を殺していいぞっていう許可をもらった護良親王は、密かに諸国の武士らに令旨を送りました。ところで、尊氏の軍は京都の治安も守っていました。「京都の住民に迷惑をかけるな」というのが尊氏のポリシーで、京都に住んでいる人々の金品を盗んだり乱暴したりする人をビシビシ取り締まっていたのです。ですが、「武士のくせに偉そうにしやがって!」と、奢り高ぶった公家の家臣らは、それに反抗するように掠奪をしたりしていました。

ある日、尊氏の部下がそういう一人を捕まえました。すると「オレは殿法印様の家臣だぞ!無礼者め!」と逆ギレ。尊氏の部下らは「誰の家臣であろうと関係ない」と引っ立てようとしました。すると「うるせぇ!殿法印様は護良親王の友達だぞ!犬のようなお前らが公家を捕らえるなんて許さんぞ!」とギャーギャー騒いだ時に、懐から一通の書状を落としてしまったのです。それは「謀反人足利尊氏を討て」という護良親王が全国の武士に宛てた令旨だったのです。

それを聞いた尊氏はさすがに激怒し、後醍醐天皇に「息子の護良親王が私を討とうという計画をしてますよ!天皇はご存知だったのですか!?」と直訴に行きました。後醍醐天皇は「知らぬ」と首を振りました。そこで廉子も「ほらね。わたくしが申し上げた通り護良親王は野心を抱きまくっているのですわ。いかがいたします?」と援護射撃。廉子は最近護良が活躍しまくってて「次の天皇は護良親王の方がいいんじゃないか?」と世間が騒いでるのが気に入りませんでした。護王さえいなければ、自分の息子は安泰だわ!と考えていたのです。

廉子の言うことは何でも聞いちゃう後醍醐天皇は「けしからん!護良を捕らえよ」と言ったのです。とはいっても、片腕として頑張ってきてくれた護良親王を失うのはダメージが大きかった。ですが令旨という証拠がある以上、どうにもならなかったのです。それから3日後の10月22日。歌の会を開くからと後醍醐に誘われた護良は何も知らずにノコノコと出かけてきました。そこへ屈強の侍がやってきて「天皇の命令でございます」と、唖然としている護良を捕らえたのです。

罪は「諸国へ令旨を出し兵を挙兵し帝位を奪い取ろうとしている」というものでした。護良はそれを知って大ショック。まさか父が自分を売るとは思っていなかったのです。護良の近臣30人以上も捕らえられ処刑されてしまいました。「オレの家来達は幕府を倒すために一生懸命戦い、やっと京都へ帰ってこれたと思ったら何も楽しまないうちにこんな目にあうとは・・」と悔し涙を流しました。護良親王は捕らえられた後、直義に引き渡されました。


護良親王の土牢生活

直義は自分の任地である鎌倉に連れて行き土牢に幽閉したのです。ここで護良は父宛てに手紙を書きまくりました。が、その手紙は全て握りつぶされ後醍醐の目に触れることはなかったのです。

※「梅松論」によると、土牢ではないとあります。

護良親王のおつきの者は南の御方という寵愛していた上臈女房ただ一人でした。密室での生活はただただ悔し涙を流すばかり。「尊氏・直義兄弟よりも父上がうらめしい」と後醍醐天皇を恨みまくる毎日。


建武の新政 大混乱

ただでさえ京都は大混乱してるというのに、さらに、皇居を作り直すってことで、全国の園にお金を出させ、武士達にも収入の20分の1を税金として取った。さらに貴族の借金を帳消しにしてしまったのです。また地方武士の恩賞も相変わらず混乱しており、阿野廉子の口出しにより余計めちゃくちゃになっていた。恩賞係りだった万理小路藤房は、天皇に「頼むから廉子に口出ししないように言ってください」と訴えたが、コレを聞いた廉子が激怒!「なぁんですって!なんて無礼な!藤房をクビにしてちょうだい!」と言ったもんだから、藤房は都を追い出されてしまったりと、もうめちゃくちゃだった。

尊氏の軍がいくら治安を守るよう努力しても、もはや京都はどうすることもできないほど混乱していたのです。そして京都の二条河原に掲げられた落書(風刺や批判)には、「このごろ都に流行るもの。夜討・強盗・にせ天皇命令・召人(めしうど・囚人のこと)馬・空騒ぎ・生首・にわか大名etc・・・」と、建武の新政の混乱ぶりばっか書いてあった。次第に「新政はいつまで続くのか・・・」と人々はいい始め、「尊氏なし」という言葉が流行語に。

尊氏なしとは「徳と人望があり、人気の高い尊氏が、朝廷の正式な役人として全く名が出ていない」という意味でした。


1335年7月 中先代の乱 護良親王 斬られる

1335年に北条高時の息子、時行が「幕府再興」をはかって、「もう一度武士の世に戻そう!オレがもし天下を取ったら武士中心の政府を作る!」と、信濃で兵をあげました。不満を持っていた武士達は喜びの声を上げました。中先代の乱とは、先代は高時・後代は尊氏なので、中をとって中先代の乱。時行のバックアップは長野の諏訪氏。

この挙兵計画は、まず後醍醐天皇を殺し、時行が信濃で挙兵。高時の弟である時興が近畿で挙兵。北条(名越)時兼が北陸で一斉に立ち上がるというものでした。が、この計画は漏れてしまったのです。京都にいた主だった一味が逮捕となり、逮捕を免れた者が信濃の時行のところへ行って慌てて時行が挙兵したのでした。武士達は「今の朝廷よりこっちの方がいいぜ!」と応援に駆けつけ、名越時兼の兵も挙兵し、一気に鎌倉まで迫ったのです。鎌倉にいた尊氏の弟の直義は、こりゃ勝ち目なさそうじゃと早々と逃げました。が、この時、護良親王のコトを思い出しました「あいつを生かしておいたら、怨恨を晴らすべく北条の味方をするかもしれん。足利家のためにならんな」と家臣の淵辺義博に殺して来いと命令しました。

そして淵辺は護良親王のもとへ行き「戦乱が始まるのでここを立ち退くべくお迎えにあがりました」と言ったところ、護良親王は「おのれはワシを殺しに来たのであろう!」と淵辺に襲い掛かったのです。護良親王は武芸に優れていましたが、半年もの土牢生活で座りっぱなしが多かったため体がいうことを効かず、淵辺に押さえ込まれ首を斬られそうになりました。

護良はよほど無念だったのが、首をちぢめて刀に噛みついたのです。刀の先が折れてしまい淵辺は脇差を抜いて胸を二度刺した後、首を斬ったのです。その時の護良親王の顔は刀の先を口にくわえたまま目をカッと見開き凄まじい形相だったそうです。淵辺は「このような恐ろしい首は直義殿に見せることはできん!」と藪の中に投げ捨てました。護良親王28歳の悲惨な最期でした。そして時行の軍は鎌倉へ入り、鎌倉を奪うことに成功しました。今まで潜伏していた北条の残党も集まり、一時的に幕府が再興されたのです。


朝廷愕然・・・どうする??

朝廷は幕府が時行に奪い返されたと聞いて大混乱。とりあえず誰かを征夷大将軍にして幕府をやっつけに行かせなきゃ!ってコトになりました。この時足利尊氏が「オレを征夷大将軍にして鎌倉に行かせてくれ」とお願いしたんだけど、後醍醐天皇に却下されました。

後醍醐天皇は「尊氏を征夷大将軍にして鎌倉に行かせたら、こいつは絶対そのまま居座って幕府を開くに決まってる!」と考えたのです。そして再三尊氏がお願いするも断り続け、8月1日に突如として成良親王を征夷大将軍として鎌倉に行かせることにしたのです。


1335年8月2日 尊氏 勝手に鎌倉へ向かう 

この決定にさすがにショックを受けたのは尊氏。高師直に「オレが征夷大将軍になって直義を助けに行く!」と話すと、高師直も「それは結構なことです。直義殿がいなくても独りでよくぞ決心しました。それでこそ源氏の棟梁です」と褒めてあげました。そして成良親王が征夷大将軍に任命された翌日、なんと「天下のためであります」という届出をして勝手に鎌倉へ兵を出してしまったのです。

尊氏からしてみれば「オレは一応武士だよ?乱が起こったのはオレの分国だよ?しかもヤラレてるのはオレの弟だよ?それがあんなお坊ちゃん成良を征夷大将軍なんかに命じやがって!これで万が一成良が乱を平定しちゃったら武人としてのオレの顔は丸つぶれじゃんヨ!」というものでした。

朝廷は尊氏が勝手に鎌倉に行っちゃったのに腹たてまくり。だけど止める術をもたないのでそのままにしちゃいました。最初尊氏は500騎だったんだけど、尊氏大好きな武士らがドンドンついていき三万騎以上に膨れ上がりました。北条方も尊氏挙兵を聞き、浜名湖湖畔で足利軍を待ち受けました。存亡が賭かっている北条方はめちゃくちゃ強く、兵の数は全然少ないのに30日以上も激戦を繰り返しました。

敗れては挑み・・・の繰り返しで、鎌倉に着くまでに15回もの戦いを繰り返し、全滅になるまで抵抗しまくりました。最後は残った43人が切腹をして、この戦いは終わったのです。残った43人の顔は全て顔の皮をはぎ、誰が誰だかわからないようにしてありました。総大将の時行もその中にいるだろうと思われましたが、実は逃げてました。こうして北条時行の乱は平定されました。鎌倉を占領してからわずか23日でありました。


大義名分にこだわる朝廷

朝廷では慌てて尊氏を征夷大将軍に任命しました。なぜか?というと「大義名分」のためであります。無断で立ち去られたのではなく、朝廷から派遣したということにして朝廷の面目を保つためでありました。もし負けたのであれば、責任を尊氏に擦り付けて失脚させることもできたんだけど、勝っちゃったからには叱ることもできないし、かといって黙ってることもできない。

こうなったら征夷大将軍に任命して朝廷から派遣したってことにするしか面目を保つ方法はないな・・というものでした。周りの公家連中は「尊氏は勝手に征夷大将軍を名乗った!あいつは謀反人だ!」と、尊氏を謀反人呼ばわりし、尊氏を討伐しようと騒ぎ出しました。さらに新田義貞も出てきて「私に尊氏と時行を討伐する綸旨を出してください」と言って来たのです。

後醍醐天皇はギャーギャー騒ぐ公家らを苦々しく思うように。「バカどもめ!尊氏の実力がわかっとらんのか!?今アイツを謀反人にしてしまったら、北条時行と連合しちゃうかもしれねーじゃねーか!そうなったら新政府軍などひとたまりもないではないか」けど、後醍醐天皇はそんなこと声を大にして言うことは出来ませんでした。

朝廷はプライドだけは高いんだけど、実力が全くなかったのです。天皇である後醍醐天皇が朝廷よりも武士の方が強いってなコトを言っちゃったら大変なことになっちゃうからです。後醍醐天皇は周りの意見を抑え、尊氏を征夷大将軍に任命したのです


朝廷カンカン!尊氏京都に帰ってこい!

尊氏は鎌倉に入ると兵らに勝手に恩賞を与えました。尊氏は自分の判断で武士に土地を与えることを悪いこととは思っていませんでした。かつて源頼朝がそうしたため「オレは頼朝殿と同じコトをしているにすぎない」と考えていたのです。大嫌いな新田義貞の所領も勝手にあげちゃいました。新田義貞はカンカン!

ところが朝廷の考えはそうではありませんでした。土地は全て天皇のモノなのです。それを分け与えるの事ができるのは天皇だけだ!というのが建武の新政の考え方なのです。尊氏が勝手に恩賞を与えてるというのは、朝廷からしてみれば明らかに反逆行為でした。そして朝廷は使者を出し「恩賞は朝廷にて行うべき!尊氏が与えた土地は一度白紙に戻せ!早く京都に戻ってこられよ」と言いました。お坊ちゃまの尊氏はうわぁーしまった。まずかったのかなぁと弱気になり「かしこまりました。急いで帰ります」と返事しちゃいました。

だけど直義や高師直が「何ノコノコ帰ろうとしてんですか!これは絶対天皇の陰謀ですよ!もし今京都に戻ったら絶対に殺される」と何度も何度も尊氏を説得したのです。はっきりいって尊氏はお人よしのお坊ちゃまでした。弟の直義の方が全然政治情勢に敏感で優れていました。尊氏はこの時のことも「天皇は悪くない。悪いのは天皇を取り囲む側近達だ。得にオレの事嫌いな新田義貞あたりが色々とそそのかしてるに違いない」と思っていたのです。そして尊氏は直義に説得され、京都に戻ることをやめました。これにて後醍醐天皇との対立は決定的になったのです。

さらに尊氏は源頼朝の屋敷あとに自分の新居を作りました。さらに高師直などの重臣らの家もキレーに建て直し。尊氏には「源氏の棟梁」という意識がめちゃくちゃありました。そのため頼朝の後継者きどりで鎌倉にて政務を行い始めちゃったのです。こういうコトをやるようにアドバイスしたのは弟の直義らしいです。尊氏にはそんなことできる能力があまりなかったらしい。だから危険だっつー京都にノンキに帰ろうとしてたんだしね。ということで、直義という右腕は「今、ここで兄に采配をふるわせなければ、先祖代々の野望を達することはできない!この機会を逃してはならない!」という思いで、尊氏をお膳立てしたのでした。


後醍醐天皇 義貞大事にしちゃうもーん

尊氏が京都に戻らず鎌倉にて将軍気取りになっているというニュースを聞いた後醍醐天皇はカンカン!「あいつめ・・・どうしてくれようか!」と常日頃考えていましたが、思いついたのが新田義貞を起用することでした。義貞は鎌倉を滅ぼした立役者であるにもかかわらず、尊氏の息子千寿丸(義詮)も鎌倉に行ったことにより、千寿丸に人気をかっさらわれムカムカしていました。後醍醐天皇は尊氏に危険を感じていましたが、対抗する武力は全くない。そこで後醍醐考えた。

「全国の武士の中で唯一尊氏に対抗できそうなのは義貞しかいないよなぁ。実力は尊氏より劣るけど、家柄が家柄だしなぁ。楠木正成もいいんだけど家柄悪いしなぁ。仕方ない!義貞を重宝することにしよう。官位も尊氏と同じくらいあげて2人を牽制させよう」ということに。

後醍醐天皇はまず義貞に匂当内侍(こうとうのないし)という超美人の女房を与えました。田舎武士だった義貞は朝廷の洗練された美女にメロメロ。後醍醐天皇の懐柔策は大成功したのです。いつの間にか尊氏は武士軍のボス。そして義貞は新政派の武士軍のボスとなっていきました。義貞が尊氏を嫌いだという気持ちを利用して、自分の味方に引き入れていったのでした。義貞の方も尊氏が大嫌いだったので後醍醐天皇の忠臣NO1の座を獲得することに躍起になっていくのでした。

そこへ尊氏が義貞の所領を勝手に武士らに与えているというニュースが。怒った義貞は「そっちがそうならこっちだって!」と足利一族の所領を取り上げちゃいました。そしてお互い朝廷に「あいつを討伐したい!」という申し出をしたのです、朝廷は義貞の方にOKを出しました。ちょうどこの頃南の御方が護良親王が殺されたという情報を持ち帰ってきていたのです。後醍醐天皇は義貞の申し出を受け「尊氏討伐」を命じたのでした。


尊氏を朝敵とする理由は

①弟の直義が護良親王を暗殺したこと
②尊氏は天皇の許可を得ずに土地を分け与えたこと

京都は大騒ぎになりました。京都に残って朝廷につこう!という武士や、尊氏殿を助けなければ!と鎌倉に飛んでいく武士。日本は朝廷軍VS足利尊氏と、真っ二つに別れたのです。
「おれ 知らないよぉ」by 弱虫尊氏 朝廷は新田義貞を総大将として朝廷軍を派遣しました。尊氏はというと、鎌倉で幕府を再興したくせに朝廷軍がやってくるというのを聞いて 自分が「朝敵」となったとわかると大ショック。

朝廷軍はどんどんと進んできて、こちらも応戦の用意をしなければならないのに、肝心の尊氏がいつまでもグズグズ悩んでいるのです。直義らは怒りながら「どうするつもりなんですか!」と聞くと、「天皇に弓を引くのはイヤだよ。もし朝廷軍が鎌倉にやってきたら出家するよぉ。とりあえずオレ、謹慎して天皇の誤解を解く」と、鎌倉の浄光明寺にこもってしまったのです。直義は情けなくて涙が出そうでした。

その後も尊氏は寺にこもって「オレ出家したい」「これからのコトは弟の直義に全てゆだねたい」などなど言い出し、ここで尊氏が引っ込んじゃてどうすんじゃーと直義らが必死に説得したんだけど「おれ知らない!天皇と戦うなら頭丸める(出家する)」とまで言われ、直義らは「今グチを聞いてる暇はない。敵はすぐそこまで来てるし」ってことで、尊氏抜きで戦うこととなったのです。

高師直は「なんでそんなに天皇が好きなのかね?こうなっては仕方がない。直義殿が総大将となって朝廷軍と戦いましょう。ワシもお供します」と佐々木道誉(どうよ)上杉憲房らも直義を応援しました。そしてとりあえず「尊氏は病気になった」ということにしたのです。直義らは義貞に負けたら、また世の中が公家中心になっちゃうしってことで、ライバル義貞を徹底的に潰すぞ!何としても箱根越えだけはさせないぞゾ!と兵を出したのです。


直義ボロボロ・・・尊氏立ち上がる

戦下手の義貞ですが、この時は絶好調♪矢作川で両軍激突となりました。さらに佐々木道誉も新田側についちゃったりして、直義らは敗退し総崩れとなってしまったのです。箱根を越えられたら鎌倉がやられちゃうのは時間の問題。状況は極めて深刻なものとなりました。それでも尊氏は「あくまでも天皇の許しを待つんだ!」と行こうとはしませんでした。そこへボロ負けとなって血だらけの高師直がやってきました。高師直は「直義殿は箱根で最後の決戦の準備をしています。新田義貞は怒涛の勢いで鎌倉に迫っておりますぞ?」

尊氏は「そうか・・・」とまだ弱気。ここで高師直が「新田軍はこんなものを持っていました」と尊氏に小さな錦の布を手渡した。それは天皇の綸旨で「たとえ尊氏が僧になったとしても、尊氏・直義兄弟は許さぬ。必ず討ち取れ」というものでした。尊氏はそれを見て涙ポロポロ。これは偽者か?と訪ねると、「こんな時に偽者を持ってきてどうするんですか!」と逆に高師直に怒鳴られた。ちなみにコレは偽物らしい・・・。

この綸旨は尊氏の心を動かしました。「大好きな直義が死んでしまってはワシは生きている甲斐もなくなる。天皇に逆らう心は全くないが直義を見殺しにすることはできない・・・」と、立ち上がる決心をしたのです。こうして尊氏は兵を引き連れ箱根へ向かいました。箱根・足柄の戦いが繰り広げられたのです。ここで朝廷軍の塩谷高貞が足利軍に寝返ったため義貞らの負けが決定的になりました。

義貞は箱根を引き上げ西へ敗走していったのです。当時の合戦は寄せ集めの兵が多かったため、兵らは負けたとわかったらさっさと逃げていきました。いつまでも負けた大将についていくような忠誠心は持ち合わせていなかったのです。義貞は直義が総崩れになったときに、追撃していればもしかしたら鎌倉を落とせたかもしれません。追いかけるのをやめ、途中で仲間の兵がやってくるのを待ってしまったので尊氏を潰すチャンスを失ってしまったのです。そして「義貞を追撃して京都へ攻め込め!」尊氏は号令し、武士たちは「おう!」と喚声をあげたのです。


1335年12月 尊氏怒涛の勢いで京都へ!

義貞敗走の情報は諸国の武士へ伝わりました。すると朝廷から足利へ寝返る武士らが続々と出てきたのです。近江の京極家、美濃の土岐家、播磨の赤松家、九州の大友・島津家などなど。皆後醍醐天皇の建武の新政に不満を抱いており、尊氏が反旗を翻してくれるのを待っていたのでした。

義貞らが京都に逃げ帰ってくると尊氏と直義は義詮を鎌倉にとどめ大軍を率いて、京都へ上洛するべく向かいました。途中恩賞が少なくって不満を持っていた赤松則村や細川定禅(じょうぜん)も加わり、勢いを得まくってとうとう京都へ。

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