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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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バカ将軍義政 さらに争いの種を蒔く 

この頃、将軍が正月の挨拶に管領の屋敷を訪問するのが慣例となっていました。お家騒動の後に、畠山家を継いだ政長は管領となり、将軍義政が挨拶にやってくるためにご馳走を用意したりと大忙しでした。

当日、準備万端で待っている畠山政長の屋敷に、いつまでたっても将軍義政がやってこないのです。「あれ?おっかしいなぁ」と、政長は不安に思っていたところに、将軍の使者がやってきました。「本日、将軍は都合が悪く来れないそうです」と伝えにやってきたのです。「何だよぉ。将軍が管領の家に挨拶に来ないなんて前例がないぜ?面目丸つぶれじゃんか!」と怒っているところに、さらに驚くべきニュースが!なんと政長と家督争いをしていた義就の家に将軍義政は挨拶をしに行っていたのです。

さらにさらに!ご丁寧に「畠山氏を継ぐのは政長にしちゃったけど、やっぱり義就にする!管領も義就にしちゃう」とまで言っちゃったのです。もー政長にとっては「何考えとんじゃー!」状態でした。早速政長は勝元に相談。

政長は「誰が譲るか!」と、屋敷に留まることを決心したのです。すると義就派の山名宗全が飛び出してきました。「政長がいつまでも屋敷に留まるのは、バックに勝元がついてるからじゃねーの?勝元に政長を早く追い出せって命令したらどうよ?」と将軍義政に忠告したのです。

が、ここで義政考えた(バカなりに)「宗全の言うとおりにしちゃったら、今度こそ山名VS細川で戦いが始まっちゃうよなぁ。もうお互い爆発寸前だもんなぁ」ということで、とりあえず「宗全・勝元とも、政長と義就のことはほっとけ!畠山のことは本人達におまかせしろ」と言いました。政長はコレを聞き「じゃあ、オレは自分の力で管領職を守りぬいたる!」と激怒。戦うことを決心したのです。


1467年1月18日 政長 宣戦布告! 

とうとう政長が勝負に出ました。政長は自らは畠山邸を焼き、兵を出したのです。対する義就も、いつかこうなるだろうと予測はしていたので、早速兵を集めました。宗全も勝元も将軍義政から「手出しするなよ!」といわれていたんですが、義就が押されているというのを聞いた宗全は「なにぃー!」と、将軍義政の命令を無視して兵を出したのです。この時勝元は「今ここで動くのは不利」と読み、とりあえず今回は宗全&義就が勝利したのです。勝元から援軍の来ない政長は逃げていきました。


1467年3月 勝元動く

3月になると勝元の周りが慌しくなってきました。日野富子は「何か起こるんじゃないか」と義政に相談したんだけど、義政はノンキに「ダイジョブだろ?」くらいの感覚でした。が、4月になると京都へ大量の軍が入ってきたのです。市民はビックリ!

さらに勝元チームである赤松政則が、かつて自分の領地であり、現在は山名氏の領地である播磨を攻撃!播磨の山名氏はビックリして負けてしまいました。すると今度は山名チームの大内政弘が「こしゃくなぁ!」と、京都へ軍を向かわせたのです。

こうして京都は続々と兵が集まりだしたのです。宗全チームには斯波義廉・畠山義就・土岐成頼・六角高頼ら20カ国。兵の人数は9万人。勝元チームには斯波義敏・畠山政長・赤松政則・京極持清ら24カ国。兵は16万人。さらに将軍義政の弟義視も宗全チームに加わりました。

表にするとこんな感じ

         東軍   西軍
総大将  細川勝元  山名宗全
将軍家  足利義視  足赤義尚&日野富子
畠山家  畠山政長  畠山義就
斯波家  斯波義敏  斯波義廉 

宗全は西軍・勝元は東軍として京都を舞台に戦乱が始まろうとしていたのです。ちなみに、西軍の宗全が陣を構えた場所が、今の京都の西陣です。


1467年5月26日 応仁の乱始まる! 

将軍義政は京都に兵が続々と集まるという異常な状況にドッキドキでした。「先に戦を仕掛けた方を将軍の敵とするからな!」と掛け声を上げましたが、もはや宗全も勝元も将軍のことなど眼中にありませんでした。将軍や富子のいる御所は一応勝元の手に押さえられていました。

宗全は将軍・富子・息子の義尚を自分側に取り込もうと、室町御所乗っ取り計画をたて始めたのです。その役として一色義直が選ばれました。が、これは勝元に見破られ逆に一色義直は攻められてしまいました。一色義直は屋敷を焼かれ、逃げちゃいました。ここに戦国時代突入のきっかけとなった応仁の乱が幕を開けたのです。


勝元 天皇をゲット!官軍になる 

勝元は後土御門天皇と後花園上皇を室町御所に抱え込みました。将軍と天皇を御所に置いたことにより、勝元は「官軍」となり宗全は「朝敵」となったのです。宗全は先を越されたことに怒り、なんとか将軍&天皇をゲットしようとしました。

京都ではいたるところで戦乱が繰り広げられ、市内は焼き払われまくりとなったのです。さらに地方から一旗挙げようと続々と軍勢がやってきました。これらの地方武士は田舎っぷりを発揮し、強奪などをしまくったり、意味もなく火事を起こしたりと、京都はますます大変なことになっていったのです。


富子 義政に嫌気がさす 

戦はいつ終わるのかわからない状況になってきていました。この頃の京都は焼け野原となり、大事な文化財などもことごとく燃えまくってしまいました。将軍義政はそんな状況がイヤになっちゃって、お酒ばっかり飲むように。世の中に起こっている事を忘れようと、酒・女にますます溺れるようになってきたのです。

そんな義政にほとほと呆れた富子「世の中は大変なことになっているっていうのに、将軍のくせに何やってるのかしら!もともとはアンタが適当な政治をやってたからこんなことになったんじゃないの!」と、2人の間は冷えまくってきたのです。


戦いはダラダラと続く

この戦いはおよそ11年続きました。いつまでたっても勝敗がつかず、田舎から出てきた守護達もだんだん自分の家が心配になってきました。というのも、戦乱は都から地方へも飛び火し、だらしない政治っぷりに農民らが立ち上がり一揆が起こるようになってきたのです。

さらに守護達の家臣らが「主君がいない間に・・・」と、家を乗っ取ろうとしたりと、国元も騒がしくなってきたりしました。そのため、守護達は徐所に国へ帰りはじめたのです。また宗全&勝元もはっきりいって戦いをやめたくなってきていました。だけど、周りの人たちが納得いかーん!と休戦を反対していたため、この戦いはいつまでもダラダラと続いていくこととなったのです。


1471年 下克上やっちゃいました by朝倉孝景(あさくらたかかげ) 

朝倉孝影は、斯波家の義敏と義廉の間でケンカがおっぱじまると、義廉の味方をしました。が、応仁の乱が始まると義廉の味方をし、京都で奮闘します。ですが越前において、義敏の兵に背後を襲われてしまったのです。この時細川勝元が「もし東軍の味方をするなら、お前を越前守護にしてやるぞ」とささやかれました。

孝景はビックリ!そして迷った末、寝返りを決意し、細川勝元に協力。朝倉孝景は越前守護の座をゲットしたのです。主家である斯波家に代わって、朝倉家が越前を治めることに。が、こっからは苦労の連続でした。かつての同僚らは、「なんでオマエが社長(大名)なんだよ!」と怒るし、家臣団はバラバラに。

孝景は本拠地を一乗谷に移し、再編成をすることにしたのです。戦国大名第一号は「北条早雲」が知られていますが、原型は朝倉孝景とも言われています。


京都は修羅場に!乱暴狼藉「あしがる」の登場 

この乱により大軍が日本全国から京都に集結!市内では毎日のように戦いが繰り広げられ、物資の動きもストップしたりしていました。そのため食料難が続き、掠奪が始まったのです。悪党が横行し、それを取り締まるべき幕府側の兵なんかも酒屋などを襲撃する始末。

中でも一番騒ぎを大きくしたのが「あしがる」でした。足軽は下級兵士のことで、ほとんどが各地の守護大名が戦力補充のために臨時で雇った人でした。もとは浮浪者や没落農民が多く、常識や道徳に欠けている人がほとんど。彼ら足軽は掠奪や放火をなんとも思っておらず、一番の特徴は「逃げることを恥と思わない」ということ。

平安時代後期から出てきた「武士」とは、逃げるなど言語道断!めちゃくちゃ「恥」なことだったんだけど、彼ら足軽はそんなの知るか!命あってのモノダネって感覚でした。そして彼ら「足軽」は戦国時代に突入すると、無視できない新戦力となっていくのです。


1473年3月18日 両軍大将続けて死ぬ!

そうこうしているうちに、なんと西軍総大将の山名宗全が70才の高齢だったため死んでしまいました。こうなれば細川勝元の時代じゃー!と思いきや、なんと2ヵ月後の5月11日に、44歳の若さで死んでしまったのです。世の中は蒼然としました。両軍大将が立て続けに死んでしまったのです。

宗全の後は山名政豊が、勝元の後は政元が後を継ぎました。この2人は早速講和しようとしましたが、畠山義就&政長が異議申し立てをして、講和は破棄されたのです。


1473年12月 9代将軍 足利義尚 

将軍義政は何度か「戦いヤメロー」と騒いでたんだけど、誰も義政の言うことなど聞きませんでした。こんな状態に疲れてしまった義政。「もうワシはイヤじゃ。風流三昧の生活をしたいんじゃぁー」と、9歳の義尚を新将軍にすることとにしたのです。ちなみに、可哀相な弟の義視は「兄の言葉を信じたオレが馬鹿だった・・・」と悲しみながら美濃へ下っていったのです。こうして新将軍義尚が誕生したのです。


富子 政治の楽しさを知る 

新将軍の義尚はまだ9歳。将軍になったといっても、9歳なので何もできませんでした。後見人の宗全も死んだ今、代わりに政治を行えるのは富子と富子の兄・勝光でした。富子と勝光は新将軍の後見人となり、政治を始めました。富子は自分の一言が、世の中に多大な影響を及ぼすようになると、政治がおもしろくておもしろくて仕方がなくなってきました。「これが世の中の政(まつりごと)か!」と、急にイキイキしだしたのです。

おもしろくないのは前将軍の義政「なんだよ!富子のヤツ!義尚に代わって楽しそうにやっちゃってサ!」とひがむように。この頃義政は隠居して「小川御所」に住んでいました。ちなみに、当時上流家庭では、絶対に離婚&別居はしちゃだめ!といわれていたので、将軍夫婦が別居するなんて前代未聞の事件。富子が楽しそうにしているのが気に入らない義政は、突然「ワシ、これから大御所として色々発言するから!尊敬する義満のマネするから!」と言い出したのです。

富子は「いまさらなんです?あなたが出てくると余計ごちゃごちゃするんですからね!あなたはもう隠居の身でございましょう?黙っててくださいな!」と一喝したのです。義政は政治がイヤで、遊びまくりたくって隠居したというのに、これがきっかけで富子をますます恨むようになるのです。


1476年 富子 権力を得まくる 

幼い将軍を抱え込み、富子と勝光は権力をゲットしまくりました。義政はそんな噂を聞くたび、おもしろくなくますます酒びたりの生活を送るように。そんな中、兄の勝光が48歳で死んでしまったのです。義政大喜び!富子は頼りである兄が死んでしまい大ショック!

「こうなったら、私1人で義尚を助けていかなくては!!」と心にちかったのです。富子は考えていたことがありました。それは「幕府は戦乱続きでお金がなさすぎる」ということ。世の中は戦乱が続いており、お金がないために堕落していった武将らを数多く見てきました。「お金さえあれば、このようなことにはならぬ。世の中、財力があるものが勝つのだ」と思うようになってきていたのです。


富子 守銭奴となる 

富子は手始めに、自分が持っているお金を戦費に困っている武将に貸し付けました。無力で馬鹿なダンナがいたため、そして幼い息子義尚に少しでもよりよい幕府を授けるため。富子はお金儲けを始めたのです。みんなお金がなかったので、富子にバンバン借りにやってきました。

さらには敵方であった武将にまで富子はお金を貸したのです。そのため「御台所とあろう者が浅ましい」と陰口を叩かれまくりました。富子は「何とでもお言い!私は幼い義尚と幕府のためにやってるのよ!」と財テクしまくったのです。


1477年11月 応仁の乱 やっと終わる 

こんな中、ずっと続いていた応仁の乱がやっと幕を引きました。山名・細川も戦いをやめたかったし、まわりもほとほと疲れてきたのです。畠山義就も疲れて河内へ帰り、管領には政長がなるということで落ち着きました。1467年から始まった長い戦いは終わったのです。

勝敗はどちらにもなく、ダラダラとした長い戦いでした。この戦いにより京都の町は焼けまくりり、死体がそんへんにゴロゴロし、将軍夫婦の仲に亀裂は入り、残ったものは何一つありませんでした。


富子 財テクしまくり 

一応世の中は平和になった・・・・・・ということになっていましたが、地方では長い間留守にしていた主君に代わって、家臣らが暴動を起こしたり、一揆が始まっていたりと、都の戦乱の飛び火が続いていました。

富子は「いつまたあのような目にあうかわからない!私はまだまだ儲けるわよ!」と、今度は「米」をターゲットに。富子は米の収穫期に、米を買占めて米価が上がったところで売るということをやってのけました。さらに今まで廃止となっていた「関所」を再開したのです。人々は富子を非難しまくりました。ですが、非難している人たちもお金が無くって富子に借金しにくるのです。

「ふん。負け犬達め。勝手に吠えていればいいわ。私は貯めたお金を自分の遊びに使ってるんじゃないのよ!幕府のため・義尚のために使ってるというのに。女が政治に口を出し、巨万の富を手にするのがそんなにダメなわけ?アタシはね、真剣なのよ!遊びじゃないのよ!」と開き直っていたのです。富子は多くの人を敵に回していたのです。


富子の悩み・・・「義尚、あんたお父さんに似ちゃったのね・・・」 

一生懸命頑張っている富子をヨソに、肝心の将軍義尚は富子の思ったように育ってくれませんでした。富子は義尚のお嫁さんには自分と同じように「日野家」の娘を考えていました。富子が選んだのは兄の勝元の娘。1481年に義尚とその娘は結婚したんですが、すぐに事件が起きたのです。

実は義尚には好きな女性がいました。それがなんと父である義政の愛人だったのです。そして父と息子が同じ女を取り合い、大喧嘩してしまいました。もう富子は唖然。「なんたること!親子で同じ女を取り合いするなど汚らわしい!」と超激怒!すると義尚は「うるせぇんだヨ!ガタガタいうならオレ、将軍辞めちゃうぞ!」と言い出しました。

もー富子は大ショック!「今まであんたのために頑張ってきたのに!人に何を言われようと、あんたのためだけを思ってやってきたのに!」と怒ったんだけど、義尚は反抗期まっさかり(?)だったのです。


1482年 義政 銀閣寺を建てる
 

このような中、突然トラブルメーカー義政がまたも「自分勝手計画」を発表しました。義政は昔っから祖父である義満にめちゃくちゃ憧れていました。そこで「義満の造った金閣寺と同じように、ワシも立派な山荘を建てる!金閣に対抗して銀閣だ!」と言い出したのです。

義政の脳裏は「風流ありまくりの山荘にするゾ!えっとぉ、滝が流れるようにしてぇー、緑を美しくしてぇー・・・」など想像しまくり。これを聞いた富子は「まったくあの男は・・・・。どこにそんなお金があるのかしら」と呆れまくり。義政もさすがに富子にお金を借りるわけにもいかず、本当はおじーちゃん同様キンピカにしたかったんだけど、無理だったのであの「ワビ・サビ」の銀閣寺が出来たのです。


1488年 加賀一向一揆 

この頃、京都本願寺の蓮如は、浄土真宗をさかんに広めていました。親鸞が広めた仏教の教えで、念仏を唱えれば極楽にいけるというもの。が、蓮如は延暦寺の迫害にあい、越前(福井県)に移りました。浄土真宗は、農民や地元武士らに広まり、信者達は団結を固めていくように。

その頃、加賀(石川県)の守護、富樫家では政親(まさちか)と幸千代の兄弟が争っていました。政親は、浄土真宗を味方につければ幸千代をやっつけられるかも!ということで浄土真宗の信者らと手を組んだのです。それを知った幸千代は、信者らをやっつけることに。が、「死んだら極楽へいける!」と言いながら命知らずで向かってくるため幸千代はとうとう負けちゃいました。そして信者達は、こんなお偉いさんたちに土地をまかせてらんねー!団結すれば俺達で土地の面倒も見れるんじゃないのか!?という動きに変わっていくのです。

この動きに焦った富樫政親は、信者らを滅ぼそうとしました。が、怒った信者らは命知らずの戦いをして、とうとう加賀の国は一向一揆衆にとられてしまい、政親は自刃したのです。「死んでも極楽!」とマインドコントロールされている信者らは、怖いものナシだったのです。そして1488年に加賀国の一向一揆は大成功。浄土真宗が100年間ほど支配する国になったのです。

一向宗が守護大名を破って一つの国を作っちゃったもんだから他の国の一向宗も独立の動きが高まり、戦国時代になってからも朝倉・上杉・徳川・島津なんかもこの動きを抑えるためにすごく苦労することになります。その後一向一揆は広がり、1600年代の信長の時代まで続くこととなるのです。


富子 後継ぎを決める 

ここにきて富子は非常に悩んでいることがありました。息子である義尚にいつまでたっても子供が生まれないのです。「ヘンなとこばっか父親に似て、酒飲みだからかもしれない。このまま子供が生まれなかったらやばいわ」と考えていました。

そしてとうとう「後継ぎ」として、大嫌いだった義視の子供である義植をプッシュしだしたのです。というのも、義視のとこに嫁いだのは富子の妹でした。義視は大嫌いだけど、義植は妹の子なので「日野家の血」を継いでいる。そう考えたのです。

これを知ったご隠居義政は激怒!というのも、義政は義政なりに「義尚にはいつまでたっても子供が生まれないなぁ。後継ぎにはオレの弟である政知の次男を将軍にさせよう」と考えていたからです。が、この頃富子に逆らえる人はいませんでした。

富子のプッシュした義植が後継ぎになることとなったのです。ちなみに義視はこの話しを持ちかけられると「え???っつーか、ほんとに?オレもう騙されるのイヤだよ」と半信半疑でした。けど、富子が本気とわかるとおおはしゃぎだったそうです。


六角高頼 反乱を起こす! 

この頃応仁の乱のおかげで世の中はめちゃくちゃになっていました。いつまでも決着のつかない戦いに、守護たちが京都でうろうろしている間に、国元で留守を預っていた家臣たちが主君の所領をゲットしちゃったり、我が物顔で政治を行っていたりしていたのです。

さらにその家臣達はどさくさに紛れて、周囲にある公家や寺社の荘園なんかも奪ったりしていました。何とかしてくれぇーと幕府に度々訴えがあったのです。将軍義尚は「勝手に奪った所領や荘園は、きちんと戻せ」と命令しました。「将軍の命令とあっちゃ返すしかないか・・・」と、みんなしぶしぶ返したりしていたんだけど、そんな中で六角高頼だけは命令に従おうとしなかったのです。将軍義尚は激怒し「オレが行って六角を攻めるぞ!」と言い出しました。

みんなビックリ!!!二代将軍足利義詮以来、将軍自らが兵を進めるということがなかったからです。「さすがは足利尊氏の血を引いているおかたじゃ!」「さすが源氏の棟梁じゃー」と、皆感心しました。この時義尚23歳でした。


1489年3月 義尚 酒飲みすぎで死去 

勇んで討伐に行った義尚でしたが、実際は「慌てることはないだろ」とノンキでした。六角氏の所領の近くに陣を張ったんだけど、六角氏は全然攻めてくる気配もないし、「こんなもんか」と義尚はのんびりしちゃいはじめました。さらに近くから美女を集めて、酒宴を開いたりするように。その中からお気に入りの女性を選び、

毎晩毎晩遊びまくりのエロ三昧。細川政元が心配して「六角氏はお家断絶の危機なので、必死ですよ?絶対何か企んでますよ!」と進言しても、義尚は「うるさいなぁ」くらいにしか思わないのでした。そうこうしているうちに、なんだか義尚の顔色がどす黒くなってきました。

毎晩深酒をし、遊んでばかりの生活が祟り、体調が悪化していったのです。これは普通じゃないと、まわりの人々は義尚を一度戦場から帰らせることにしました。義尚の病気は日に日に悪くなり、とうとう25歳という若さで死んでしまったのです。その後六角氏討伐はなんの成果もあげないままとなってしまいました。


1490年 10代将軍 足利義植 

義尚が死んだことにより、25歳の新将軍義植が誕生しました。ここまでは富子の思い通りだったんですが、なんと父親の義視(義政の弟で、富子にめちゃくちゃにやられちゃった人)が、口を出しまくるようになってきたのです。義視からしてみれば

「オレは寺で静かに一生を過ごす予定だった。それを兄貴(義政)が将軍にさせてやるって言うから表舞台に出てきたっていうのに、自分の子供が生まれちゃったらお払い箱。オレの人生何なんだよ?」状態でした。そんな中、義植が将軍になったもんだから「うー!長かったぁ。これからは父親のわしが助言しまくるぞ!」と口を出しまくったのです。

これには富子もカチンときてました。「はぁ、義視が専横しまくってるわ。もう日野の血にこだわるのはヤメにしましょ。」ということで、以前から義植が将軍になるのをイヤがっていた細川政元と手を組み「義植を辞めさせましょ」と計画しだしたのです。


1494年 11代将軍 義澄 細川政元クーデターを起こす 

そんな中、義視が突然死んでしまいました。富子たちにとっては超ラッキー。さらに義植が義尚が果たせなかった六角家をやっつけにいこうと言い出したのです。1492年 義植は京都を出発しました。義植が京都にいない今がチャンスと、富子&政元は義植を廃すべく動きはじめたのです。

富子と政元は義政がずっと次の将軍にしたいー!と言っていた義澄を連れてきました。義澄は義政の弟である政知の息子で、お寺に入っていました。そんな義澄を還俗させ、大々的に新将軍を発表しちゃったのです。もー義植はビックリ!ですが、逆らう力はなく都を落ちていったのです。


将軍義澄 細川政元を頼りまくる 

新将軍義澄はまだ15歳。今までお寺に入っていたので、右も左もわかんない状態でした。そのため自分を引っ張ってきてくれた細川政元を頼りまくり、政元は政治を意のままに行ったのです。富子はそんな様子を見て腹立だしい思いに。

「まったく!あれじゃあ政元の傀儡じゃないの!一応将軍なんだから少しは発言しなさいよね!」と思うようになってきたのでした。そのため富子は何かと口を出すように。が、義澄はそんな富子を「うるせーな!」と思うのでした。


富子夢が終わる  

2人の仲はだんだん険悪になってきました。今や義澄は細川家ばかりを頼り、何でもかんでも政元の言うとおりに動くというお飾り将軍となっていたのです。富子は「あんた将軍なんだから!もうちょっとしっかりしないさいよ!」とガーガー文句を言いました。

義澄はそんな富子がうざったくて仕方ありませんでした。とうとう義澄は「富子うるさすぎ!京都から出て行け!」と将軍命令を出しちゃったのです。もー富子ビックリ!ですが将軍の命令に逆らうわけにはいかず、京都を出て行ったのです。

それから富子は1496年の57才まで1人寂しく生きました。義澄は富子の葬儀にも出なかったそうです。富子の残した莫大な遺産は、皮肉にも大嫌いだった義澄が受け継いだのです。そして傀儡将軍となった義澄。幕府の権威は地につき、地方ではだらしない幕府の代わりに守護大名が力をつけ、守護大名は戦国大名となり、時代は戦国へと突き進んでいくこととなるのです。

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