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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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戦国時代スタート 

戦国時代とは、1467年応仁の乱から始まったといわれ、終わりにはさまざまな説があります。

①信長が京都へ上洛した1568年
②信長が将軍足利追放し室町幕府が滅亡した1573年
③秀吉が天下を統一した1590年
④家康が将軍になった1603年
⑤家康が豊臣家を滅亡させた1615年

応仁の乱によって将軍の権威は地に落ち、京都は殺戮と略奪の修羅場となってきました。だらしない幕府の政治のツケが地方に飛び火していったのです。世の中は乱れまくり、地方では家来が主人を討ち、子が親を討つなど下剋上の風習が出始めてきたのです。野党や一揆・反乱も流行り、

全ては自分の腕のみが頼りとなってくる時代の到来です。農民だろうがなんだろうが、自分の実力のみで富と権力を得られる時代に。幕府の権威をたてに偉そうにしてきた守護大名は、時代の波に乗り遅れ没落していきました。そして実力のある大名は近隣を攻め、領地を拡大し勢力を広げていくのです

。勝つためには手段を選ばない時代の到来。それが戦国時代なのです。大名は、争いで頑張った武将に恩賞(ご褒美)として土地を与えなければならないので、恩賞がなくなると、新しい土地が必要になる。で、新たな土地を得るために合戦!そしてまた恩賞という悪循環が続いたのが戦国時代です。



戦国時代の基礎知識 


下剋上(げこくじょう)とは

下剋上とは下の者が上になって、権力を奪い取るというもの。古代律令制の社会では、天皇から貰う官位によって人間の価値が決められており、下の人間が上の人間をやっつけるなど許されない行為でした。ですが「下剋上」という言葉自体は鎌倉時代から使われており、武士の時代とともに「力のある者が上にいく」という風習は出始めていたのです。

そして下剋上現象が決定的となったのが、この戦国時代なのです。応仁の乱以後、力のある者が台頭してきました。それまではお偉いさん(公家)が荘園を持っており、実体のない権威をふりかざしていました。そこへ実力のある武士が横領・強奪を始めたのです。

権力だけを持っていて武力のない公家連中はされるがまま。下剋上という言葉は落ちぶれていく公家の怨恨こもった言葉なのです。最高の下剋上を成し遂げたのは、農民から天下人となった豊臣秀吉です。


守護大名と戦国大名の違いは 

「守護大名」や「戦国大名」という言葉は、第二次世界大戦後に定まったものです。守護の没落と新しい勢力をわかりやすく区別するためにつけたれたのです。「守護」は鎌倉幕府からありましたが、その頃はたいした権力を持っていませんでした。幕府によって「そこの地方をおまかせしますよ」という、一応は一国のボスとなっていたのです。

それが南北朝・室町時代にかけ守護の力がつきはじめ、今で言う「知事」レベルにまでなってきました。そして地域の武士達を家臣とし、リーダーになっていき「地方のボス」となっていったのです。「戦国大名」というのは、自分の実力によりのし上がってきた人の事をいいます。

北条早雲や斉藤道三などがいい例です。守護大名の中でも武田信玄や島津義久のように守護大名から戦国大名へ脱皮した例もあります。ですが、守護大名から戦国大名になる過程は簡単なものではありませんでした。

実力がものを言う時代になってきたので、弱い「守護」つまり「主君」には誰もつきたくない。そのため有力な家臣が下克上を起こすケースもありました。戦国大名は「幕府」の権威をまったく頼らず、独自の力のみでのし上がってきたのです。


戦国大名にとって「天下」とは 

戦国時代の大名にとって「天下」とは、京に上がって自分の家紋の旗を挙げることが目標でした。この頃の天皇ははっきりいって超貧乏!応仁の乱によって京都は荒廃しており、建物の修繕費などでオカネが全然ありませんでした。もちろん幕府もね。

天皇は「神」みたいな存在で、政治のことは全て幕府頼み。天皇の仕事は官位を授けたり、改暦(年号を変えること)などでした。天皇というのは「神」みたいなものと崇められ、桓武天皇以来ずーっと京都を都としていたので、その天皇のお膝元である「京都」を制した者が天下を取れるというわけです。

実力はないけど「天皇」はエライ! 実力もなく、ただ名前だけの天皇でしたが、それでも武将にとっては「天皇」というだけで敬うべき存在でした。「天皇」は腐ってようがなんだろうが「天皇」なのです。皇居の修理を依頼されるなんて、大名にとってめちゃくちゃ名誉なことで、みんな大喜び。

さらに天皇から「官位」をもらうってのは、とってもすごいこと!!戦国大名にとっては官位を授かるということは、まわりの大名に「オレは天皇に認められているんだぞ!」と超自慢できることでした。また領地拡大や、領地支配にも影響を与えるのです。「うちの殿様は天皇から官位を授かるくらい素晴らしいヒト」というカリスマが出てくるのです。


戦国武将の教育カリキュラム

力の支配する乱世を勝ち抜くには、武芸はもちろんでしたが、何も知らないと馬鹿にされるので学問や教養も大事でした。馬鹿なヤツがお家の大将になったら、お家滅亡となってしまう時代だったため、戦国武将たちは「家を守るため」に、自分の息子を「将になる器」に育てるべく、熱心に教育したのです。武士の息子は「寺」に入れられ僧侶に勉強を教えられました。

一般的な教育カリキュラムは

8歳くらいまで・・・遊びながら協調性を身につけさせる。家臣の子供達と交わり、集団の中で社交性を身につけさせる。シツケはめちゃくちゃ厳しい

10歳~13歳・・・「読み・書き」を教える。下級武士や庶民の子はココどまり。エリートコースになると次に続く

13歳・・・本格的に時間割を組まれ勉強!読書・手習い・経文を読むなど。毎朝6時に起きて決められた勉強をし、終わるのは夜の11時ごろ。読書は般若心経など。

14歳・・・本格的な漢字勉強。武将としての兵書も教わる。和歌にも取り組む。

15歳・・・さらに難しい漢字勉強!またこの頃から初陣に出るようになる。


戦国大名の「城」は 

日本において「城」は約4万作られました。その中のほとんどが戦国時代に作られたものです。城は軍事拠点となり、攻めにくく守りやすいでなければいけませんでした。「城作るぞー!」と決めたら、まず築城目的にあった土地を探します。お次は「設計」そして「工事」となります。

城の中身はというと・・・

本丸・・・城の中心部。城主の部屋もここにあります。お客さんと対面する部屋もここ。

二の丸・・・本丸を囲む建物。藩の役所や武器の倉庫がありました。

三の丸・・・重臣の屋敷。お蔵。馬小屋などがあります。

西の丸・・・城主が隠居した後に住むところ。本丸の西におくため「西の丸」

戦国時代の築城名人として有名なのは藤堂高虎。他にも太田道灌(どうかん)・加藤清正・松永久秀などがいます。名城と呼ばれているのは安土城(織田信長)江戸城(徳川家康)大阪城(豊臣秀吉)。他にも聚楽第・姫路城・熊本城・名古屋城などなど。ちなみに武田信玄は「城」を一つも作りませんでした。そのため「お館様」と呼ばれていました。 


戦国大名の家紋 

家紋は、昔からあったそうですが、代々受け継がれるようになったのは平安時代の末期からです。お偉いさんたち(京都の公家・マロども)が、自分の牛車や洋服に好みの文様をつけたのが始まりだそうです。そして公家達の中で流行し、「人とは違うかっこいいモノを!」と、お偉いさんたちが美意識バリバリの家紋を作ったのです。

最初武士には家紋がなかったんだけど、敵味方を区別するためにとりあえず簡単な旗を造りました。それが次第に「一族の名誉をあらわすんだから、素敵なデザインにしなきゃ!」というものになってきて、戦国時代に完璧な家紋ができるようになってきたのです。

ちなみに皇室の紋は「桐紋」桐には鳳凰が宿るということで、古くから上流貴族に人気がありました。これが皇室紋として正式に用いられるようになったのは鎌倉時代の末期です。武士として初めて天皇から「桐紋」を賜ったのは足利尊氏でした。この時「菊紋」も一緒に使うことを許可されました。

天皇から「紋」を賜るということは最高の名誉で、尊氏は拝領したこの紋を自分の一門である新田・今川・一色・斯波・細川・畠山などに与えました。ちなみに信長も後に足利将軍から「桐紋」を貰ってます。秀吉も「桐紋」をゲットしましたが、友好関係を深めるため色んな人にプレゼントしちゃったため「桐紋」の価値がガタ落ちし、のちに「むやみにばらまくな!」と、禁令を出すほどになりました。


戦国大名の家訓 

家訓とは、自分の「家」のプライベートな部分を決めたものです。自分の「国」の法律みたいなものは「家法」です。戦国時代を生きた武将達が、自分の経験から得た知識や反省・要望などをまとめ、のちの子孫や家臣に守るように残した教えのようなものです。家訓にはその人の人生観や道徳観など、色んな思いが溢れています。

ユニークなものをあげると・・・

武田信玄・・・戦場で死にたくないと思うな。そう思うと逆に死ぬぞ!

織田信長・・・何事も信長の言うとおりにしろ。信長の後姿も大事にしろ!信長に足を向けるな!

徳川家康・・・贅沢をするな。得意なことはやらなくていい。苦手なものを努力しろ。人を憎むな。敵を作るな。うがいした後の水は飲め。

上杉謙信・・・すべて「心に~」から始まる16項目で、「心に曇りなきときは心は静かなり」「心におごりなきときは人を敬う」などなど

北条早雲・・・他人の意見をよく聞け。ウソを言うな。具合が悪くても髪の毛をきちんとしろ。朝は4時起き・夜は8時に寝ろ

吉川元春・・・流行ファッションは禁止。奥さんを大事にしなさい。妻は夫の勝手によって離婚されたら慰謝料は好き案だけ貰いなさい。

黒田如水・・・茶碗を大事にしなさい。茶碗はきちんと洗いなさい

六角家・・・不倫をした妻は相手とともに殺せ!

今川義元・・・喧嘩両成敗である。子供のけんかには関わるな。

蒲生家・・・親戚が貧乏になったら自分の財産をちょっと与えろ。

鍋島家・・・占いに頼るな

とまぁ、いろんな家訓があります。ちなみに豊臣秀吉は「家訓」を残していません。


家臣団の組織作り 

戦国時代の家臣団はざっと4つに分けられます。

一門(いちもん)・・・大名と血縁関係にある上級家臣

譜代(ふだい)・・・一門より血縁関係が薄い人や、古くからずっと家臣として服従していた人たち。

外様(とざま)・・・合戦した時に服従した相手側の人で、大名にとって一番やっかいだった人たち。

直臣(じきしん)・・・直接主君に属している家臣。大名の親衛隊みたいなもの。

武士というのは、鎌倉幕府依頼から「御恩」と「奉公」をモットーとしてきました。

戦国時代も大名は領地を確保してあげるから、その代わり戦えよ!というのはありました。ですが、戦国時代は鎌倉時代よりもっと複雑に各地で大名が名乗りをあげていた時代。裏切り・寝返りなど日常茶飯事。そのため大名も「結束」を高めるために苦労しました。婚姻関係を結んだり、名前を一字あげたりと、家臣団をまとめるために必死だったのです。


この時代の「同盟」とは? 

戦国時代はまわりは敵だらけ。そこで他の国と「とりあえず共同戦線はっときましょう」と行われたのが「同盟」です。お互いの領地を侵略するのをやめましょうね!というものや、攻めるのも守るのも共に協力してやっていきましょう!という結びつきの強いものなど、色々とありました。「同盟」を組んだとはいっても、裏切りはつきもの。

同盟相手の国の分が悪くなってくると、さっさと破棄するパターンも沢山ありました。で、「同盟」の保障として娘を相手の国に嫁がせたり、自分の子を人質に出したりしました。いわば「担保」です。「担保」を送り込もうが生き残りゲームに勝ち残るためには「裏切り」はあります。

1人の命より「家」の方が大事でしたから。裏切りが発覚すると、「担保」は見せしめとして、無残な方法で殺されてしまうのです。人質として有名なのが徳川家康。信長も浅井長政と同盟を組むときに、取って置きの切り札「お市の方」を嫁がせました。家康も同盟の証に長男を信長の娘を結婚させてます。


戦国時代の食事は? 

「腹が減っては戦ができぬ」を地でいってたこの時代。主食は今のような白いお米ではなく「赤米」や「黒米」でした。「白いお米」は公家や大名クラスしか口にすることのできない超高級品。農民クラスになると「赤米」なんかもご馳走でした。戦国武将の食事タイムは1日2回。朝と夕方で、量にすると1人1日5合食べてました。

おかずは野菜の煮物や海苔・梅干・お漬物などなど。ご馳走というと、魚や鳥が出てきました。味噌汁もありました。だけど大豆ではなく糠味噌汁。大豆味噌汁は貴重品でした。


食事のマナーは? 

戦国時代は食事の作法がこと細かくありました。まずお客さんの家でお酒を出された時、全然飲まないというのはマナー違反。また高価な魚が出た場合、真っ先に手をつけないこと。食べたいのを我慢して、1・2回ちょこちょこっと箸をつけるだけ。また主人より先に食べ終わるのはNGでした。


戦国大名のお食事スタイル 

織田信長・・・早食いの信長が大好きなのは湯漬け♪今で言うお茶漬けです。また味は辛めのが好きでした。

徳川家康・・・美食・暴飲・暴食が嫌い。健康志向だったので麦飯・焼味噌を食べてました。

上杉謙信・・・モト坊さんだけあって粗食。食事は一汁一菜でしたが、合戦前だけはありったけの食材で家臣らに大盤振る舞いしました。またすごいお酒好き。毎日ドンブリでお酒を飲んでました。酒の肴は梅干。

伊達政宗・・・料理に対する考え方はプロ並み。粗食でもさりげない置き方とかにこだわりました。

豊臣秀吉・・・珍味大好き!豪華な食事大好き!の秀吉でしたが、ふだんは麦飯が好きだったらしい。

北条早雲・・・88歳まで生きた早雲は、老人になっても歯も抜けないくらい超健康。そんな早雲の食生活は旬の山菜をたんまり入れた味噌汁。梅干も毎日欠かしませんでした。

斉藤道三・・・モト油売りだけあって、油を使った料理をよく口にしてました。
 
 
 
戦国時代のトレンディ「茶の湯」 

武将達はストレスたまりまくり。そんなストレスを癒し空間で静かな精神状態になりましょーということで「茶道」がブームに。そして度々上流階級では茶会が行われるように。ですが、茶会は密談するのに絶好の場だったのです。なんせ密室に数人しかいないのだから、漏らしたくない話をするのに最高の場でした。

そのため「茶の湯」は、いつしか戦国武将たちになくてはならないモノとなっていくのです。さらに茶をたしなむというのは上流階級だけができること。茶の湯は武将達のスティタスシンボルとなっていったのです。ちなみに茶器コレクターで有名なのは織田信長。茶室で有名なのは、秀吉の黄金の茶室。名器好きなのは松永久秀でした。


セレブの基本「和歌」 

馬鹿じゃ大将にはなれないこの時代、「教養部門」で大事だったのが茶の湯と和歌でした。和歌は傷ついた心を慰めたりしてくれるものだったそうです。その教養の発表の場は「連歌」連歌とは、数人の武士が一列に座って順番に歌を詠むもので、前の人が詠んだ歌を次の人が受けて詠むというもの。

合戦の前によくやったそうで、連帯感を保つために連歌は大事なイベントとして行われました。だけどセンスのない武将もいたので、代わりに主君に代わって歌を詠むという商売も出てきました。ちなみに和歌のセンスが一番あったのは、戦国時代のインテリ男・細川幽斎だそうです。


お手紙について 

この頃の通信手段は「手紙」しかありませんでした。相手に意志を伝える唯一の通信手段だったため、数多くの手紙が残されています。笑えるものや感動するものなど、沢山ありますので、のちほどチョコチョコと紹介してます。
 
馬は今の高級車!? 

この時代、馬を持っているということは武士の中でもある程度の階級であるということを示すスティタスシンボルでした。馬は戦国武士の宝だったのです。が、この頃の馬は「ポニー」よくテレビではサラブレッドにまたがり、颯爽と走るシーンがありますが、アレは違います。何度もいいますが実際は「ポニー」です(笑)

武田の騎馬隊で知られる武田軍の馬が発見されたましたが、馬の高さは120cmしかありませんでした。ちなみに幕末、外国人が日本人の乗っている馬を見て「日本人は馬のようなものに乗っている」と言ったそうです。ということは、武田の騎馬隊の活躍とかはどうなの???ということになってしまいますが、実際は馬から降りて戦ったのではないかと言われています。だけどそれじゃあロマンがないので細かいコトにこだわらず定説どおりかたらせてもらいます!


戦国大名のファッション 

普段着としての基本ファッションは小袖・肩衣・袴でした。小袖は今で言う「シャツ」で、もともとは上流階級の下着。肩衣は「ベスト」みたいな感じ。これがのちに裃になります。袴は「ズボン」です。馬に乗るため裾は絞ってるあるのが多かった。身分の違いがわかるのは「素材」当時は麻がほとんどでしたが、お金持ちは木綿や絹を着ていました。

この頃は「お茶」が流行しまくってたので、流行色は「茶色」でした。ちなみに男性は袴の下にふんどしでしたが、女性はノーパン・ノーブラでした。また有名なファッションは「信長うつけファッション」ホスト並みにゴージャスだったのは伊達政宗。「伊達男」という言葉ができるくらいですから。


武将達の信仰心 

エリート武将の多くは、幼い頃にお寺で教育を受けていたので、自然に仏教と関わっていました。また常に死と隣り合わせの時代だったので、神仏にすがり心の安定を求めていました。さらに「死後の世界」とか「因果」を信じていたので、少しでも罪の意識をやわらげるために、熱心に信仰を行っていました。

そんな武将の中で異色なのが織田信長。まったく神仏を信じずにいました。信じるどころか、大嫌いだったのが松永久秀。特にキリシタンは大嫌いでした。人一倍信仰心が強かったのは上杉謙信。「生涯不犯」を貫き、結婚もしなかった。また仏教以外にも熱心な「キリスト教信者」もいました。「仏教では戦乱の世は救えん!デウスなら救える!」と大友宗麟などのキリシタン大名が多くでました。


戦国大名の初陣 

武士の子が初めて戦に出ることを「初陣(ういじん)」といいます。年齢は決まってはいませんでしたが、だいたい元服してからなので14才くらいからが多かったようです。大将クラスの息子の初陣となると、重臣らが時期や戦場を十分に吟味して選びます。というのも、初陣から負け戦となった場合、ずっと笑いものとされてしまうので、絶対に勝つ!という戦を初陣にしました。大将クラスの息子の初陣は「勝負に行く」のではなく、一種の儀式のようなものだったのです。


出陣前のルール 

戦国大名にとって「合戦」は生きる死ぬかの大勝負。さまざまな縁起担ぎやルールがありました。まず最初に出陣日などを「おみくじ」によって決めました。また軍師が占いによって決めるなど、さまざまなパターンがありました。そして「いざ!出陣」となった時に欠かせないのが「三献(さんこん)の儀式」

3つ重ねた盃を置き、その盃の中には打鮑(うちあわび)勝栗(かちくり)昆布が載せられており、その間に置かれた盃に酒をそそぎ、主君が飲み干すというセレモニー。この3つには「打つ!勝つ!喜ぶ!」の意味が込められていました。ちなみに、この3つは消化が悪いため、ちょっと口にするだけ。大将が下痢ピーになったらカッコ悪いもんね。で、盃を飲み干すと、主君が「えい、えい」といい、家臣らが大きな声で「おう!」といいます。

ちなみにこの「えいえいおう!」は勝ち戦の後にも言います。これを「勝鬨(かちどき)」といいます。また合戦前は絶対に「女性」と関わるのはNGでした。これは後ほど詳しく書いてますが、当時女性は「汚らわしいモノ」だったのです。


みんなすがった合戦の「軍神(いくさがみ)」とは? 

武将らは合戦に行く前にすがる「軍神(いくさがみ)」がいました。実在していたとされる「人」としてスサノオノミコト・神功皇后・ヤマトタケルノミコト・坂上田村麻呂などが「軍神」であったり、仏教の教えから「軍神」となった不動明王・摩利支天(まりしてん)・弁財天・鬼子母神・大威徳(だいいとく)明王などがいました。

軍神についてちょこっと説明すると

摩利支天・・・インドの月や陽炎を支配している神様。武田信玄が信仰していました。

弁財天・・・日本では福徳の神様として尊敬され、七福神の1人とされました。

不動明王・・・如来が民衆を救うため、怒った姿で現れる時の仮の姿だそうです。

大威徳明王・・・毒蛇や悪龍を倒す明王で、手に剣を持っている姿のため軍神として尊敬されていました。

スサノオノミコト・・・日本神話の人で、ヤマタノオロチを退治した人

ヤマトタケルノミコト・・・熊襲(くまそ)討伐で活躍した人。

坂上田村麻呂・・・蝦夷討伐で活躍した人

神功皇后・・・日本のジャンヌ・ダルク(?)。女性でありながら自ら軍船を率いて新羅を討伐した人。 


戦国武将の率いた兵はどんな兵? 

「合戦」というと、立派な鎧を着た多くの兵が戦うところをイメージしますが、実際は???でした。というのも、兵のほとんどが自分の領地の農民だったからです。合戦が始まると領内には文書が出回ります。そこには「15歳から70歳の男児は全て出陣すること」とあり、とりあえず武士らしくしてこいとつけたしてありました。

そのため農民らはとりあえずスタイルで合戦に挑むのです。合戦で死んだ人のうち本当の武士は1割程度で、あとは防備もままならない農民がほとんどだったのです。もっとも農民の中にも「ここで手柄をたてて家臣にしてもらうぞ!」と張り切ってる人もいました。ですが合戦となると飛び道具や刀を持って華々しく活躍する武将とは裏腹に、丸腰状態の農民は殺されまくったのです。


合戦の時の食事は? 

普段は粗食な武将でも、合戦になると話は違います。気持ちを高め、勝利をおさめるために大将は兵士たちにたらふく食べ物を与えました。普段あまり食べることの出来ない「米」も食べさせてもらえたし、雉料理なんかも出てみんな大喜びでした。こうして合戦前はスタミナ補給&栄養補給をバッチリとって、備えるわけです。

合戦に入ると夢のようなご馳走生活とはおさらば。生きるか死ぬかの場となるのです。「干飯(ほしいい)」という、白米を水で洗って粘りをとって乾燥させたものを配られました。干飯は合戦中でもぽりぽりと食べれるし、水を入れればふやけるし(インスタント食品みたい)、おなかを満たすのにバッチリでした。

また塩分補給のため「味噌」を紙に包んで携帯していました。こうしてとりあえず3日間くらいは生きれるくらいの食料「腰兵糧」を持たされ、兵は戦うのです。


「陣形」ってなに?
 

「陣形」とは、中国の名軍師「諸葛孔明」が造ったものと言われています。さまざまな陣形がありますが、有名なのは平安時代中期の学者が紹介した「八陣の法」です。

魚鱗の陣・・・敵陣に対して「へ」の形で布陣するもの

雁行の陣・・・雁の飛ぶ様子に似ていることからつけられた名前で、斜めに布陣する陣形

その他にも「長蛇」鶴翼」「方円」などなどがあります。
 

合戦でヒーローに!「一番槍」「一番首」になるには 

合戦においては「一番槍」「一番首」が最も名誉なことでした。一番槍というのは、最初に敵と槍を合わせた者を言います。勝敗は関係なく一番に向かった勇気を賞賛したものです。戦国時代も中期となると、一番槍をあらかじめ決める場合もありました。一番首は、最初に討ち取った首です。これら「一番槍」「一番首」になるということは武士にとって最高の名誉でした。


武士の「死」の美学 

武士達は常に死と隣り合わせでした。そして武士達が必死で守り抜こうとしていたのは「家」でした。武士達はとにかく自分の死をプラスにしながら死ぬことを望んだのです。自分が名誉ある死を遂げるということは、「家」の存続に関わってくるからです。武士にとって「捕虜」は最大の屈辱でした。

捕虜になるくらいなら自害をする。つまり潔く死ぬというのが美学だったのです。潔く死ねば、主君に褒め称えられ自分の息子やその一族は安泰なため、武士達は華々しい死に方を望みました。戦場では潔い・華々しい死に様を見せ、自分の名を後世に残し、「家」を存続さえることが戦国武将たちに「死のパフォーマンス」させることとなったのです。


首実検とは? 

首実検とは、戦いで勝ったチームの大名が行うものです。首を並べ、討ち取った首の数や有名な武将を討ち取った者に褒美が出るという、武士達にとってはめちゃくちゃドキドキする場でした。討ち取られた首は女性が首を洗い、化粧をほどこしました。

石田光成の家臣であった山田去暦(きょれき)の娘に「おあむ」という20前後の女性が残した「おあむ物語」に、戦国時代の女性の様子が書かれています。おあむはこの時、父が関ヶ原の戦いで三成側につき、大垣城に籠城していました。おあむによると、城の中で敵の首を洗い、髪の毛を整え顔に白粉をし、お歯黒を塗ったりしていました。「生首は怖くはなかったけど、血なまぐさい部屋に寝起きしたのは気持ち悪かった」と言っています。

首実検の終わった首は晒されたり、捨てられたりしました。名高い武将の首は丁重い葬られたり、敵方へ送り返されたりもしていました。戦国時代末期になると、首を持ちながら歩くのが大変になってきたので、首の代わりに耳や鼻を削いで倒した相手の数を競うようになってきました。


野戦・城攻め・籠城って? 

この時代の戦い方は城を舞台としたものと、野戦があります。野戦では、野原が舞台となったり「○○原の戦い」など、河原が舞台となったりしました。城を舞台としたものは、守る側は「籠城戦」で、攻める側からは「攻城戦」となります。城の攻防戦は時間がかかり、激しい戦いになっていました。

一番ノーマルな攻め方は「力攻め」で、力任せにガンガン攻めるというもの。ですが守る方も必死なので、城内から鉄砲や弓をバンバン撃ったりしたので、犠牲も多くなりました。時間がかかるけど「兵糧攻め」も多く行われました。城外から運ぶ食べ物を一切遮断するというもので、豊臣秀吉が得意としていた戦法です。また水攻めといい、城の周りの地形を考え川をせき止め水浸しにするという作戦もありました。


戦国時代のオカネ 

大名達の財源は「年貢米」です。大名は領地から取れるお米が財源でした。そのため米が沢山取れるいい領地は大人気。他国を侵略して、たくさん米がとれる領地をゲットするというのも重要なことだったのです。他には特産物で利益を得るというのもありました。

またこの時代は日本史上空前のゴールドラッシュ。金山・銀山開発もすごいものでした。武田信玄の領地は、米の生産量が少なかったため鉱山開発がすごい進んでました。 


女難の時代・・・戦国時代の女性はどうなの? 

はっきりいってこの時代、女性として生まれたら最悪でした。身分の高い女性は「政略」の駒に使われ、自分の意志はまるでなし。ちなみに「美」とは「顔を白く塗れば塗るほど美しい」というもので、白粉を重ねまくっていました。結婚した時は「お歯黒」を塗っていました。

ルイス・フロイスは「ヨーロッパでは歯を白くするために努力しているのに、日本女性は黒く染めていておかしい。肌も真っ白で恐ろしい」と言ってました。身分の低い女性も、男性の庇護のもと暮らしてました。それでも35種類の職業があって、酒造・餅売・機織などほとんどが販売業でした。

楽しみは遊山。神社に行ったりして息抜きをしていたのです。ちなみに合戦が始まる!!となると、もう最悪。定められた本陣周辺の農民達は、まっさきに自分の女房と娘を隠しました。隠し場所が見つかってしまうと、女性達は本陣まで連れて来られて無理やり夜伽の相手をさせられてしまうのです。

この時、美人であれば武将クラスがお相手。どうでもいいような女性は、雑兵相手となりその辺の原っぱで無理やりレイプされてしまうのです。舌を噛んで自殺する女性や、罵ったために「オレ様の誇りが傷ついたぞ!」と言って斬られる女性も多数。女性に「人権」など一切なし。女性にとって最悪となる女難の時代だったのです。


24時間重労働 小姓の役目

戦国時代の武将は身の回りのことを女性にやらせずに「小姓」を置き、すべてやらせました。小姓は24時間重労働。食事・掃除・お出かけのお供すべてをやり、もちろん戦いにもついていき、セックスの相手をしたのであります。なので小姓には機転がきく主人好みの美少年が選ばれ、美少年であればあるほど武将にとってスティタスになりました。

主人に合わせて肛門を広げておくとか、おならの原因になるイモ類は食べないとか、すごい大変でした。小姓の期間は14歳~18歳くらいまでで、常にメンバーチェンジが行われていました。小姓の間一流の武将になるべくノウハウを主人から盗み、また忠誠心も養われていくので小姓上がりは有力な家臣となっていくのでした。

ちなみに、信長の一番のお気に入りの小姓は「森蘭丸」また若い頃、前田利家も信長とは男色関係。エピソードとして、信長が安土城完成パーティを開いた時に末席にいた利家に対して「そなたはワシの秘蔵っ子であったな」と声をかけまわりの武将連中を羨ましがらせた。他には蒲生氏郷(がもううじさと)も信長の小姓でした。

武田信玄の小姓として有名なのが高坂昌信。昌信はすごい美少年で16歳の時に信玄にヒトメボレされたのでした。豊臣秀吉と石田三成・家康と井伊直政もそっち関係だったらしい。井伊直政は、15歳の時鷹狩をやってた家康にヒトメボレされたのでした。 

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