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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1336年1月10日 尊氏京都へ突入!

この日、尊氏軍は京都に突入しました。京都を舞台とした大激戦は、各地で目の廻る忙しさで繰り広げられました。後醍醐天皇は比叡山に避難しちゃいました。尊氏にとって一番手ごわかったのが、宇治を守っていた楠木正成でした。

大激戦の中、尊氏が京都を占領しました。「尊氏京都を制圧。後醍醐天皇比叡山に逃げた」というニュースはたちまち広がりました。もうちょっとで北畠顕家が率いる援軍が来るというのに、みんなさっさかと逃げてしまいました。こうなると楠木正成も支えることはできなくなり、宇治を引き払ったのです。


1336年1月13日 北畠顕家が到着!

京都を占領した尊氏軍。今度は朝廷軍から京都を守ることに。が、ここで20歳になるかならないかの北畠顕家が朝廷軍の援軍として到着したのです。顕家は若いけど、勇猛果敢な武将でした。尊氏はそれを知っていたため「新田尊氏はたいしたことないだろうけど、顕家がやってきちゃったのはヤバイナ・・・」と思っていたのです。

顕家は到着するや、すぐさま京都攻撃に移りました。義貞・正成らも一緒になって京都を攻撃!尊氏軍は兵糧止めもされてしまい、連日の合戦で疲れきっていたためイマイチ力が出せずになってしまい、とうとう光井寺の合戦において足利軍が大打撃を受けてしまったのです。戦況は義貞有利に進み始めました。足利軍はなぜか負け癖がついてました。尊氏はここは思い切って一度体勢を立て直すべく九州に落ちることに決めました。この時ノリノリの義貞軍が尊氏を追撃すれば勝てたのに、なぜか追撃しませんでした。太平記ではこの時追撃しなかったのを義貞のせいにしてます。

どうやら義貞は最愛の美妻である匂当内侍と離れるのがイヤで、追撃するのを延ばしてたらしい。実際のところは「マラリヤ」のような病気にかかったそうです。結果、尊氏は九州で体勢立て直しに成功しちゃうこととなるのです。


尊氏「オレ、ほんとに天皇が好きだヨ」

尊氏はこの時も攻撃してくる兵のことを「朝廷軍」「天皇軍」とは言いませんでした。「新田義貞と悪臣たち」という言い方をしてました。尊氏はここにきてもまだ「自分と天皇は本当は理解しあっているし、仲がいい。それを邪魔したりしているのが新田義貞とその仲間達だ。オレはそういうヤツラと戦っているのであって、天皇と戦ってるわけじゃぁない。だからヤツラを官軍とか天皇軍と呼ぶわけにはいかないのさ」と言っていました。

ある時、赤松則村が「そうはいっても実際世間は尊氏殿のことを逆賊(天皇に逆らうヤツ)と思ってますよ。じゃあ一つ提案ですが、こないだまで院政やってたじゃないですか?その頃は上皇が院宣たくさん出してましたよね?ここはひとつ光厳上皇から義貞を討てという院宣を出してもらえば逆賊イメージがなくなるんじゃないですか?」と提案したのです。光厳上皇は後醍醐天皇は元弘の変を起こした時に、鎌倉幕府が勝手に即位させた天皇でした。

そのため後醍醐天皇が隠岐島から脱出後、復活して建武の新政をスタートさせた時に「光厳天皇は北条から指名された天皇だから辞めさせる!」と宣言されちゃったのです。光厳天皇が即位した時に、後醍醐天皇は一応譲位させられたんだけど、幕府が勝手にやったってコトで「本当の天皇はオレ様。オレ様がずーっと現天皇なんだヨ!」とばかりに、追い出された光厳天皇。だけどどっかやるわけにも行かないので、一応は「上皇」ということになっていたのです。

ちなみに系列は持明院統。後醍醐天皇は大覚寺統なのでライバルです。尊氏は光厳上皇にお願いし、「新田義貞を討て」という院宣をゲットしたのです。尊氏は官軍となりました。これによって後醍醐天皇は「尊氏のヤツめ、ついに私の敵である持明院統についたな・・・」と激怒!ここまでくると、いくら尊氏が「オレ、後醍醐天皇スキだよ。」と言っても通用しなくなるのでした。

対する義貞はこの頃得意満面でした。京都において武功が認められ、各地の武将が義貞に言い寄ってきました。超美女を妻にし、名声もゲット。人生最高の瞬間となっていたのです。 


軍師 楠木正成 「新田を捨てましょう」 

正成は新政が始まり、尊氏VS義貞の空気が濃くなってくると、義貞と組む事となりました。身分が低いため後醍醐は義貞をボスとし、正成を京都の守備につかせることにしたのです。正成の軍師としての活躍は以後なくなりました。義貞よりも上を行くことは許されなかったのです。正成は義貞を武士として評価していませんでした。むしろ尊氏の方が優れていると考えていたのです。

「義貞はバカだ。賢い武将なら尊氏が敗走した時に追撃しなければならないのにそれをしなかった。あいつはいっつもそうだ。勝機を見逃してばかり。都にいる間も公家の真似ばかりして酒に溺れ、多くの美女に囲まれて遊んでばかり。成り上がりの田舎武士だ」と常日頃思っていたのです。また正成は武士の名門だの嫡流だのといったものが好きではありませんでした。名門だからという理由で地方武士にありがたがられ、尊敬されるのを馬鹿馬鹿しく思っていたのです。

正成は身分が低く名門の出ではないため、どんな大功を立ててもたいした恩賞はもらえない立場だったため余計その思いが強かったのです。それでも尊氏のことは認めていたのです。そして正成は軍議の席で、「新田義貞とは手を切り、足利尊氏と手を組んだほうがいい」と意見したのです。公家達は「は?」と呆然としました。「お前はバカか?なんで九州に逃げた尊氏と和睦しなきゃならんのだ?あいつは義貞に敗れて逃げたんだぞ?」と蔑み、笑い出したのです。「いえ、多分九州に逃げてから必ず京都に攻め上ってまいります。」

「アホか?九州には菊池を始めとした朝廷が命じた国司がいるんだぞ?尊氏なんてそいつらに今頃やられとるわ!」「いいえ、九州の人たちは尊氏の味方をするでしょう。」と、正成が言ったとたん公家連中は大激怒!「お前は九州では朝廷の力より尊氏の方が強いと言うのか?バカにしとるのか?大体朝廷に忠義を持っている新田義貞と手を切れなどと新田殿にも失礼ではないか!お前は自分が恩賞が少なかったので新田殿に妬みの心を持っているんだろ?」

ここまで言われては正成はもう何も言えなくなってしまいました。すると一人の公家がバカにしながら「では正成殿は、もし尊氏が京都に攻めてきたらどうするおつもりなんじゃ?」と聞きました。正成はマジメに「天皇と義貞は比叡山に退避していただく。そして足利軍を京都市内に入れる。ゲリラ的な市街戦を行い、物資の補給の道を絶やす場所を占領します。秤量もなくなり敵が疲れ始めた時に、比叡山にいる義貞がやってきて、私と義貞とで挟み撃ちする」というものでした。

まず勝ち目のない戦いにおいて、少しでも勝てるチャンスを見出した作戦でした。敵は多分大人数で勢いがある。京都にはわずかな兵しかいない。と、正成は得意のゲリラ的戦略を意見するも、公家の大反対にあったのです。「京都に兵を入れるのは官軍の恥だ!」に始まり「なぜ撃ってでない?そんなに尊氏軍の人数がいるわけないだろ!?」「天皇が京都を離れて比叡山へ軽々しく行けるか!威信が失われるだろ!」「オレの家が焼かれたらどうする!?よそで戦ってくれ!」「足利が勝ってるのはたまたまだ!」とか・・・。戦ったことのない公家らによって正成の意見は却下されまくったのでした。

そして最後には「もし万が一尊氏軍が来たならばおぬしが最前線に出ろ。それが本当の忠義というものだろう?」と意地悪く笑ったのでした。正成は、もうこいつらに何を言ってもだめなのだ・・・と思うしかありませんでした。


1336年 尊氏 九州にて勢力拡大

九州に下った尊氏は、宗像大宮司(むなかたのだいぐうじ)に迎えられて、本拠地を置きました。九州の武士たちは元寇の時に死に物狂いで防衛したというのに幕府からの恩賞が少なく幕府を見限ったものの、後醍醐天皇による建武の新政にもめちゃくちゃ不満を持っていました。そんな中、尊氏だけが地方武士のために努力してくれていたのを知っていたので、九州・四国・中国地方の武士たちは尊氏に好感を抱いていました。そのため、九州の武士たちは尊氏に協力するべく立ち上がる決心をしたのです。

楠木正成の考えた通りでした。尊氏は関東に佐竹義敦(よしあつ)、四国に細川定禅ら、石見に上杉憲顕(のりあき)らを送り込み、またも兵を募るよう指示しました。ここで朝廷側である肥後の菊池武敏が戦いを挑んできて、博多湾岸の多々良浜にて合戦となりました。兵が少ししかいない尊氏側は奇跡的に勝利!この戦いをきっかけに情勢が好転していったのです。尊氏は次々と攻めこみ、3月には九州一円を足利一色にしたのです。


赤松則村 白旗城で時間稼ぎ

赤松則村は最初は天皇の味方をしていました。功績は大きかったにも関わらず、地方武士だということで領地を貰うどころか減らされ、役職もダウンさせられるというヒドイ目にあった武将でした。不満を持っていた則村は天皇を見限り、尊氏についたのです。そして尊氏が九州に逃げる時に「もう一度京都に攻めに来てください。私が時間稼ぎを致します。その間に九州で準備をしてください」と告げたのです。

朝廷はまだ赤松則村の裏切りを知りませんでした。新田義貞は赤松に「尊氏を攻めに行け」と命令するも赤松は「私は一応この国の名のある武将ですよ?一応尊氏を討つための天皇の綸旨を貰ってください。そうすれば尊氏を堂々と攻めることができます」と返事したのです。

義貞は朝廷に連絡しました。が、朝廷は「尊氏は九州で朝廷の国司達にやらてんだろぉ?」と、尊氏をナメきっていたので、尊氏討伐の綸旨を1ヶ月も出しませんでした。新田義貞もみんなにおだてられ京で豪遊三昧の日々・・・。その間に赤松は城旗城を頑丈に作り直してしまい「オレは天皇など信用できん!尊氏殿を信じることにする!」と寝返り宣言をしたのです。義貞は超激怒!妻との離れることにようやく決心がついたのかわかりませんが、やっとこさ兵を出すことに。

白旗城は1ヶ月の間に防備を整えまくり、水も兵糧も充分蓄えてたためなかなか落ちなかった。2ヶ月以上もかかってしまったのです。尊氏にとっては超ラッキー!この間に菊池も尊氏にやられ、どんどん味方をつけたのです。


3月10日 朝廷大パニック!えっ!?尊氏が??

この日朝廷は1通の書状により大パニックとなりました。書状には「菊池敗死。島津・大友・少弐らは尊氏の味方となり京都へ向かう準備を始めている。」というものでした。朝廷は騒然となりました。楠木正成の言うとおりとなったのです。そしてこの報は京都だけにとどまらず、各地の武士達にも広まり各地で反乱が起き始めたのです。もー朝廷はどうしていいかわかんなくなりました。

各地の反乱の中でも東北地方の反乱がすごくって、朝廷は北畠顕家に反乱を鎮めるよう命令。これを楠木正成が「今は東北の反乱よりも尊氏を討つことが先決です。ヤツさえいなくなれば各地の反乱は鎮まります。ここで精鋭である北畠殿が東北に行ってしまっては、非常にまずいです!」と大反対。だけど朝廷は「身分の卑しい田舎武士めが!この一大事の時に何を偉そうに!」と、正成の意見を却下し、北畠顕家は東北へ行かされてしまったのです。

京都に残ったのは新田義貞軍のみとなりました。しかも義貞はまだ白旗城を落とせないでいる。「朝廷はこれまでだ・・・・」正成は一人覚悟を決めたのです。


4月3日 足利尊氏 いざ京都へ!

尊氏は3月2日に菊池武敏を破り、12日頃には各地の武士へ連絡をしまくりました。が、まだ「私は後醍醐天皇に背いているんではない。新田義貞らを討ちに行くのだ」という気持ちは変わっていませんでした。直義・高師直はほとほと呆れていました。

4月3日に大宰府を出発し、5月1日に厳島神社にて勝利祈願をしました。尊氏は義貞が中国地方の武士らのハートを掴んじゃったらめんどうなコトになる。白旗城が持ちこたえている間になんとか中国地方に攻めあがらなければ!と思っていたのです。


5月18日 新田義貞 白旗城を諦める

白旗城を攻めていた義貞。が、いつまでも落とせずにおりました。そこへ「尊氏が京都へ向かっている」というニュースがやってきたのです。とうとう家臣らが「ここはもうあきらめましょう。ぐずぐずしてると尊氏が今度は中国地方にやってきます。」とアドバイス。義貞は白旗城をあきらめ中国地方へ行くことに。


楠木正成 桜井の訣別(わかれ)

正成は、この戦いで勝ち目がないことがわかっていました。そして桜井という場所で、息子の正行(まさつら・11歳)に、もうこれ以上お供に来なくていいと言ったのです。正行は、父が戦いに出て死ぬつもりだ・・・ということがわかっていたのでで、どうしてもついて行く!と譲らなかった。正成はそんな正行を、泣きながらしかりつけ無理やり帰らせたのです。帰っていく正行の後姿を、涙を流しながら姿が消えるまで見つづけた父・正成でした。

青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か という「桜井の訣別(わかれ)」という歌があります。


新田義貞の責任じゃーby公家連中 

尊氏は水軍を率いて水路を。弟の直義が陸路を攻めつつやってきました。陸からの直義軍は途中で参加者が続々と増え、莫大な人数となりました。この頃の朝廷は、もう皆ビクビクと震え上がっていました。「公家は政治をやるもんだ!戦いは武士である新田義貞にまかせよう!こうなったのも全て新田殿の責任であろう?」と公家連中は一目散に逃げてしまったのです。さすがの義貞も苦笑い。頼りの名和長年も「私は山陰地方の攻撃に備えるから」と言い逃げ出してしまったのです。義貞は北畠顕家を東北に行かせたことが悔やまれて仕方なかった。

今となっては楠木正成しか頼る人物がいませんでした。義貞は正成に「どうすればいい?」と相談。正成は「こうなってしまった以上は尊氏の水軍を絶対に陸に上げてはなりません。そして直義率いる陸軍を一の谷付近で潰すしかありません。」と提案しました義貞は「では私は水軍を上陸させないために湊川の和田岬に陣を起きます。義貞殿は陸を守ってください」

「承知しました。私は湊川に陣を張り陸軍を一の谷に追い込みます。ただし、絶対に水軍を上陸させないよう和田岬だけは必ず死守してください。そうしなければ我が軍は挟み撃ちにあってしまいますから」と、正成は念を押したのです。この頃になると朝廷軍の兵たちはどんどん尊氏に寝返っていました。もはや義貞と正成くらいしか朝廷のために戦う武将はいませんでした。義貞は「今はもう私とあなたしかおりません。絶対にあなたを見捨てません。和田岬は必ず守ります」と言ったのです。


1336年5月25日  湊川の合戦 

24日ごろ、正成は湊川に陣を置きました。人数は数百人しかおりませんでした。対する尊氏軍は数万人。はじめから勝負はついていました。正成は死ぬ覚悟はできていたのです。義貞は数万人の兵がいました。そして和田岬に陣を置き、一斉に天皇家の旗である「菊水」の旗を立てたのです。尊氏のいる船の上から、義貞と正成の布陣が見えました。尊氏は正成を恐れていたので「正成を孤立させよう」と、作戦を立てたのです。そして「本軍に装った船を東に向かわせろ!さすれば義貞は東へ行くだろう。そして和田岬から上陸するのだ!」と言いました。

尊氏の作戦通り本軍を装った細川の船が東に移動し始めたのです。東の浜に上陸してしまったら朝廷軍は挟み撃ちになってしまう!そして京に入ってしまう!そう思った義貞は「あの船を上陸させたらまずい!」と馬を東に飛ばし、全軍が義貞に続いたのです。和田岬は空っぽになってしまいました。尊氏のおとり作戦は成功したのです。義貞軍が東へ向かうのが見えた正成はビックリ!「何をやっとんじゃ!死守しろと言っただろ!あれはおとりだ!和田岬を空けてはならぬ!!」と急いで使いを飛ばしました。が、義貞は「本軍が東の浜に上陸しようとしておるのだ!これは阻止しなければならぬ!」と正成の伝言を無視したのです。

そして尊氏の本陣は和田岬に上陸したのです。正成の兵は完全に孤立してしまいました。だが正成は最後まで勇敢に戦い、数百人の兵で数万人の大軍相手に6時間以上の激闘を繰り広げました。前方は直義軍、背後は尊氏軍と16回もの激戦を繰り返しましたが、数にはさすがに勝てませんでした。夕方5時ごろになると、正成は一軒の民家へ入りました。そして弟の正季(まさすえ)と、自分の一族、家臣ら50人で一斉に自刃したのです。

おとりに騙された義貞も、さすがに負けたら後がないためこの時は奮闘しまくりました。が、尊氏の大軍はどうにもできず、義貞軍も続々敗走し始め、とうとう義貞も逃げて行ったのです。京では、楠木正成が戦死!新田義貞も敗北!というニュースに後醍醐天皇は慌てて京を捨てて、ひとまず比叡山へ逃げた。ちなみに尊氏は楠木正成の首を見て「正成殿は真の忠臣であった。首は丁重に遺族のもとへ送り届けよ」と言ったのです。

※楠木正成は「太平記」において大絶賛されています。そして戦前、天皇サマサマの頃「天皇のために忠義を尽くした真の武士」としてヒーローとされるのです。


足利尊氏 京都を奪還 

楠木正成を自刃させ、新田義貞を敗走させた尊氏軍は京都に入りました。6月3日 後醍醐天皇が京都を脱出する時に捕らえられていた光厳上皇がなんとか逃げてきて尊氏のもとへやってきました。これにて尊氏は「上皇軍」となり官軍となったのです。直義は早速比叡山の攻撃を始めました。が、後醍醐天皇側も奮闘しまくり。お互いに相手を兵糧攻めにしたりと、頑張り続けたのです。


お互い腹の探り合い 

この兵糧攻めは尊氏の方が分が悪かった。何といっても人数が断然に多いのです。尊氏軍が飢えに苦しんでいるというニュースが広がりました。天皇のもとに敗走していた新田義貞が「今がチャンスです。京都を攻めて奪い返しましょう!」と提案。名和長年も賛成し攻め込みましたがあえなく失敗。すると今度は天皇側が食糧難になってきてしまったのです。


8月15日 尊氏 光明天皇を立てる 

尊氏は光厳天皇の弟を天皇として立てました。光明天皇の誕生です。これにて後醍醐天皇は廃されることとなったのです。高師直はこれでも物足りないらしく「後醍醐天皇もう一度隠岐島に流しちゃおうぜ」と言ってました。もちろん後醍醐が好きな尊氏に却下されました。後醍醐天皇側の食糧難はいよいよ深刻になってきました。そうなってくると弱々しい公家連中は「都に戻りたい・・・」と嘆き始めたのです。

尊氏は光明天皇を立てた後、京の清水寺に願文を捧げました。「この世は夢に候」に始まる有名な尊氏願文です。「この世は夢のようです 尊氏のことを後生お助け下さい なお一日も早く俗世を捨て隠居して世間のわずらわしさから離れたくて仕方ありません。(出家したいということ) 今後の果報は全て弟の直義にお与え下さい 直義をお守り下さい」という内容です。

この頃の尊氏はすっかり世の中がイヤになってきていました。本当は後醍醐天皇に逆らいたくないのに周りがそれを許してくれず、自分はいつの間にか武士の棟梁となってしまった。本当に自分がしたかったのはこういうことなのか?などなど悩みまくっていたのです。そのため、世を捨てて仏門の道に入りたいと思うようになってきていたのです。


尊氏 和睦をしようとする

天皇がお気の毒だな・・・と思い始めちゃった尊氏。とうとう「天皇に和睦の使者を送ろう!」と言い出したのです。これには直義・高師直が大反対「なぜこっちが勝ってるのに和睦なんじゃ?降伏の間違いだろ?」とブーブー文句を言うが、和睦和睦!と尊氏に言われとうとう二人は折れました。そして和睦の使者が天皇のもとへ。後醍醐天皇はそれをOKしたのです。もー新田義貞をはじめとする武士連中は大ショック!

義貞は「オレが行ったら尊氏は絶対に義貞を討て!という綸旨をもらうに決まってる。そして後醍醐天皇もそれをOKするに違いない。後醍醐天皇は息子の護良親王まで売った方だ。信用できるものか!」と考えはじめたのです。義貞の部下達もこれを聞いてカンカン!「今まで命がけで戦ってきた我々を何だと思っているのか!」と激怒しまくり。そして義貞は「では私は北に行き、尊氏を討つ軍を集めます!」と宣言したのです。すると義貞の家臣の一人が天皇に直訴したのです。

「天皇が京に戻ったら尊氏は必ずや我が主人を攻めます。今まで天皇のために一生懸命命を張ってきた一族とその家臣らを見殺しにするのですかっ!?このまま行かせるわけには行きません。どうか我々と一緒に北へおいで下さい」と言ったのです。困った後醍醐天皇は義貞をなだめるために恒長(つねなが)親王に譲位し、新天皇とさせ、恒長を北国へ連れて行くことを許可した。

後醍醐天皇はとりあえずうるさい義貞に恒長親王を渡し、ヤツラが北へ行った頃に恒長親王の皇位を取り消すつもりでいました。そして尊氏の立てた光明天皇も辞めさせようと考えていたのです。新田義貞は三種の神器も渡せと言い、恒長親王と三種の神器を持って北へ向かったのです。ちなみにこの時の神器は偽物とのことです。

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