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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1367年 3代将軍足利義満 

11歳の義満が3代将軍になり、管領(かんれい・将軍の補佐役で鎌倉時代の執権にあたる役職)には、細川頼之。まず義満は、細川頼之の助言により、「半済」という制度を実行。この頃、各地で武士が自分の土地を経営しつつ、近くの荘園に進出して武力により荘園の支配権を無理やり奪っていたので、荘園領主はたびたび幕府に「どうにかしてよ!」とやってきていた。で、荘園からの年貢の半分を軍事費として武士が取るという制度を作ったのです。

これで領主は荘園が守れるし、武士にも半分はいる。というわけで、幕府は両方から信頼されました。やがて義満は大きくなっていき、自分で幕府の政治を行うようになるのです。ちなみに、テレビアニメ一休さんに出てくる「将軍様」は義満のことだよ。


1378年 花の御所&義満の政治 

義満は、京都の室町に「花の御所」と呼ばれるお屋敷を建てました。このお屋敷が室町にあったので、「室町幕府」と呼ばれるようになったのです。花の御所は、全国の守護に工事を分担させて、各地から色とりどりの花を植えさせたのでこう呼ばれたのです。

立派なお屋敷ができたんで、今度は将軍の力をつけよう!と義満は、有力な武士を地方からスカウト。近習(きんじゅう)や奉公衆とうい将軍の軍隊を作りました。さらに有力な3つの家(斯波・細川・畠山)の3家の1つに権力が集中しないように交代で管領をやらせることに。

これを三管領(さんかんれい)といいます。侍所長官も、山名・一色・赤松・京極の4家を交代でやらせることに。これを四職(ししき)といいます。また、家柄に序列をもうけたりして将軍家の権威を高めようとしました。さらに義満は、守護受けを認めました。

守護受けというのは、荘園領主が実力のある守護に荘園の管理をまかせて年貢の取立てをしてあげるってもの。これによって、守護の勢力は増し領地の支配がしやすくなったのです。鎌倉時代は、守護と地頭の間にどっちが偉いとかはなかったんだけど、室町時代になって、守護が地頭・荘園・武士を支配するようになっていくことに。でも、守護の力が強くなりすぎちゃったら幕府は武力によって攻撃しました。

力が強すぎて滅ぼされてしまった代表的なのは1390年土岐康行・美濃(岐阜)1391年山名氏清(山陰地方・一族で11カ国を支配してた)この山名氏清はのちに出てくる山名宗全のご先祖様です。このように、幕府は出る杭はどんどん打っていき、強力になり次第に安定していったのです。対する南朝は、各地で南朝のために戦闘してた人が立て続けに死んでいって、もはや幕府に対抗する力はなくなっていました。


1383年 義満 後円融上皇の愛妾に手を出す!? 

義満は18人の妻を持ち、21人の子供をもうけた精力家でありました。そしてとうとう上皇の愛妾に手を出してしまったのです。天皇の妻・妾に手を出すことは許されない罪でした。なぜかというと、もし子供ができてしまい、その子が皇位を継いだら天皇家は天皇家でなくなってしまうから。

大和朝廷ができて以来、天皇の妻は皇室の奥深くに住まわされることになっていたのです。平安時代の頃に「後宮」ができて、他の男は入れないような仕組みになっていました。なので天皇の妻がスキャンダルを起こすことはまずなかったのです。でも皇位を降りた上皇の妻は話は別。後宮・内裏にとどまる必要がなくなり自由気ままに出歩けるようになるのです。で、若い恋人をゲットすることも可能なんですが、天皇に万が一のことがあったら上皇の子が皇位を継ぐ可能性があるので、上皇の愛妾たちは自分の身を守るのに必死でした。

周りに男を寄せ付けないようにしていたのです。だって盗人が入っただけでも貞操が疑われるようなことになってしまうからなのです。このような状況の中、義満やっちゃいました・・・。後円融上皇の愛妾の一人である女性が突然出家してしまったのです。義満との仲を疑われて上皇に暴力を振るわれ耐えられなくなったからなのです。

義満は謝んなきゃ!とただちに使者を送りました。上皇は使者の姿を見て「切腹してやるぅー!」と言い出しました。上皇の母がなんとか自害を押しとどめ使者に会わせ、義満が謝ったことで一件落着しました。上皇は自分の妾に手を出されても自殺してやるう!と騒ぐくらいしか将軍家に対して抗議のすべを持っていなかったのです。それほど天皇家の力は衰えていたのでした。


1392年 南北朝合一 

幕府は、対抗する力のない南朝とそろそろ合一するか!ってことで有力守護の大内義弘(おおうちよしひろ・山名氏清を制圧した人)の仲介で南北朝合一をすることに。幕府から合一したいと言われた後亀山天皇(後村上の息子)は、もう戦うの疲れたー・・・と、合意しました。

義満が示した講和の条件は

・三種の神器(後亀山が持ってる)を北朝の後小松天皇に渡して位を譲る

・今後、皇位は南朝と北朝で交代でやる

後亀山天皇は、その条件を飲んで京都へ入りました。南北朝合一により、室町幕府の力はゆるぎないものに!そして北朝に三種の神器がうつった後、幕府はこの条件を無視した・・・。

※ちなみに、「太平記」は、新田義貞が鎌倉幕府を倒す1333年から、南北朝合一の1392年までの70年間の戦いの記録です。 


1397年 義満 ピカピカ金閣寺を建てる 

義満は、1394年将軍を辞めて太政大臣に。太政大臣とは、律令制の最高の位。太政大臣になることで、公家を支配下におきました。次の4代将軍は、将軍は義満の子の義持(よしもち)で、1395年には太政大臣を辞めて、出家。とはいっても、政治から引退したわけじゃないよ。

そして義満は、京都北山に自分の別荘(北山殿)を建てると言い出したのです。これが建築費全然足りず、義満は、「全国の守護にお金出させろーー!」と命令。この時、守護大名の大内義弘は、「そんな道楽に金出せるか!」と拒否。これがモトで、瀬戸内海に大きな勢力を持っていた大内氏は滅ぼされちゃう。(1399年応永の乱)

ついに1397年北山殿完成。金箔を塗りたくった贅沢なモノで、のち金閣寺と呼ばれます。ちなみに、今の金閣寺は1950年火事になったので、復元したもの。


義満 文化に興味津々 世阿弥チョーカワイイ! 

さらに義満は、文化にも興味を持ち、世阿弥元清(ぜあみもときよ)・観阿弥(かんあみ)を可愛がり、能楽を保護しました。能楽ってのは、平安時代から行われていた猿楽と田楽とが結びついて生まれた演劇。役者が能面をつけて、曲にあわせて舞をするってもの。

ちなみに世阿弥を可愛がるってのは、ふつーに可愛がるってことじゃなくって男色のお相手ということ。1374年に義満が初めて世阿弥の舞台を見たときに、世阿弥のあまりの可愛さにヒトメボレしちゃったのです。それから世阿弥は義満の「超お気に入り」として後援されまくりでした。

さらに、オレっちは一流の文化を育てるぞ!!と、禅宗(臨済宗)の五山を定めて保護。(天竜寺などなど)保護を受けた五山はめちゃくちゃ栄えました。五山の僧は、幕府を助けて外交に大活躍するように。また中国の学問を紹介して、漢詩や漢文なんかも盛んに作った。

北山を中心に色々な文化が作られ、公家文化と武家文化が混ざり合った北山文化が花開きました。この頃の流れは・・・ 鎌倉幕府崩壊後、建武の新政・南北朝と相次ぐ戦乱の中で御家人制度は消滅。御家人は、地方勢力としてさらに強大になったり、混乱に巻き込まれ消滅したりしました。

そんな中で勢力を伸ばしまくったのが守護。足利将軍に近い守護大名は、将軍の威光もあって複数の国の守護職を兼ねていて、かなり強大になっていくのです。(コレが後の戦国大名)南北朝時代は、「バサラ大名」と呼ばれる守護大名が何人も登場。

古いしきたりなんかにとらわれず、実力でのし上がって行く人たちのことで、派手で粗野な風情が好み。代表的なバサラは佐々木道誉・高師直・土岐頼遠など。その取り巻きなんかもバサラに染まって都を闊歩した。ちなみに尊氏は、自分はなれなかったけどバサラを楽しんでたらしい。

でも、室町幕府が安定するようになると、武功派のバサラは風当たりが強くなるのです。品がない!とか言われちゃうように。で、少しずつ整理されちゃう(没落していく)完璧に室町幕府が整うのは義満のとき。もちろん幕府全盛期もこの頃。 


1404年 勘合貿易始めちゃうゾー!日明貿易 

鎌倉時代の終わり頃から、倭寇(わこう)が大陸沿岸を荒らしまくっていました。倭寇というのは海賊みたいなもんで、中国とかに行って海を荒らしまくり。これに困った明(中国)は、倭寇の取り締まり&貿易を幕府に求めてきたのです。1401年に国交を開くため義満は使者を送って1404年から明との勘合貿易がスタート。

正式な貿易船と倭寇の区別をするために「勘合」というのを作りました。「本字勘合」とかいてある符の半分にし、幕府と明が持つことに。で、正式な貿易船は「本字勘合」の符の半分を幕府からもらい、明が持ってるもう半分の符とぴったり合えばOK!というもの

そして、貿易船は収益の一部を幕府に納め、幕府はかなり儲かった♪義満は明の皇帝に「日本国王」と認められ、天皇より偉くなっちゃいました。日明貿易はとっても栄えて、すごい発展をしていきました。 


1408年 義満 死去 

義満の権威は最高潮でした。1395年に行われた朝廷行事の時なんか自分の洋服の裾を関白に持ってついてくるように命じちゃったりして、自分は関白よりも偉いんだぞーというのをアピールしたのです。現に公家はこぞって義満のご機嫌取りをしまくり。

明からは「日本国王」と認められ、天皇より偉くなっちゃったもんだから今度は「俺が天皇になっちゃおうかな・・・」ともくろむようになったのです。が、50歳で突然死んでしまうのです。この死は天皇の近臣があまりにも権力を持ちすぎた義満に毒を盛った可能性が非常に高いそうです。


4代将軍 足利義持 

次の将軍は足利義持。義持は、1394年に義満が太政大臣になったときに将軍職を譲られてるんだけどこの時一波乱ありました。というのも、義満は義持の弟の義嗣をめちゃくちゃ可愛がっていたから。次の将軍は兄を差し置いて弟の義嗣か?というくらいの贔屓ぶり。

もちろん、義持はおもしろくない。が、義満が絶大な権力を持ってたのがイヤだった有力守護の斯波氏なんかは、義満と仲の悪い義持をプッシュした。そして、なんとか義持が将軍になれました。義満が大嫌いな義持は、明との国交をやめちゃって義満の方針をことごとく潰していったのです。

せっかく栄えた室町も衰えていくように。義持を実際動かしていたのは斯波・細川・畠山の三管領。みんな義満の時は逆らえずにいたけど、義持になってからはやりたい放題。義持も父・義満が嫌いだったので、余計ヒートアップしていった。

義嗣は、兄や家来が大好きな父・義満がせっかく築き上げたものをガンガン潰していくのに我慢ができず、とうとう元関東管領の上杉弾秀と手を組み反乱を起こしたのです!(上杉弾秀の乱)が、これは失敗。弾秀は鎌倉雪ノ下で自害。義嗣は殺害されました。


1423年 5代将軍 足利義量(よしかず) 

義持は、さんざん義満の体制を壊しまくったけど、明との貿易をやめたせいでお金がなくなってきちゃう。さらに将軍就任の時から、守護大名になめられていたので、とうとう将軍を17歳の息子義量に譲っちゃった。で、院政をスタートさせるんだけど、守護大名は全くといっていいほど言うことを聞かずにいました。

義量はというと、17才なので父の義持よりもっと家臣からみくびられ酒びたりの毎日。ストレスをお酒で紛らわす毎日でした。そしてとうとう19歳にしてアル中で死んでしまいました。息子が早死にしちゃったので仕方なくまた将軍に返り咲いた義持。だけど、この頃は全く重臣らに相手にされない飾り物の将軍になっちゃってました。

1428年 そんな哀しい義持も、とうとう死去。後継ぎをきめないまま41歳であの世へ行ってしましたのです。


1428年 正長の土一揆が起きる 

この頃、農民はというと相次ぐ戦乱や自然災害のためかなり生活が苦しかった。1428年に義持が死んだ年には正長(せいちょう)の土一揆が起こったのです。徳政(借金帳消し)を求めて、農民が京都へ流れ込んできました。そして借金の証文を焼きまくったのです。この一揆をきっかけに各地で徳政を求める一揆がたびたび起きて、社会は不安定になっていくのです。


1429年 6代将軍  足利義教 万人恐怖始まる 

幕府では、義持が後継ぎを決めてないまま死んじゃったので、重臣会議が開かれていました。そこで選ばれたのが義持の弟の義教。出家してたトコを戻されました。この時、4人の将軍候補者がいて、それぞれ山名や細川といった強力なバックアップがつきました。で、いつまでも決められないので、こうなったら!とくじ引きで決められるという前代未聞のくじ引き将軍となった。が、この義教かなり問題あり。残虐な性格の持ち主でした・・・。

例えば、ケンカしてる2人がいたら煮えたぎる釜の中に手を入れさせ、釜に入っている石を取らせる。やけどのひどい方が負けとか、庭師を木の枝が折れただけで殺したりとか料理がまずいってだけで、料理人を殺しちゃうとか。

さらに、将軍の権威を取り戻すため自分の意志に反するヤツラを攻撃しまくり。延暦寺が焼けちゃうほどの事件まで起こすのです。自分がくじ引きで決まった将軍という引け目があったため、少しでも自分のことをナメたヤツがいると、容赦なく殺すのです。

反面、気に入った者がいるとめちゃくちゃ可愛がりました。この頃、鎌倉では鎌倉公方の権力アップのため、関東も武将らの討伐をガンガンやっていました。義教は4代目鎌倉公方の足利持氏に対してはかなり激しいイジメをしまくったのです。おかげで、鎌倉と室町は仲がめちゃくちゃ悪くなり、ついに幕府VS鎌倉という戦いが起きちゃう。

これが1439年 永享の乱。で、持氏は負けて自害してしまいます。義教は、ますます独裁者になっていったのです。


将軍義教 「気に入らんヤツは殺すぜ!」  

義教は、有力守護を次々と追放していきました。一色氏や土岐氏なんかも邪魔だっつーんで殺害されまくり、畠山氏も追放された。細川・赤松以外の有力守護はほとんど義教に攻撃されまくった。次の将軍のイジメの対象は赤松じゃないか??と噂されたのです。


赤松満祐「義教ムカツク!!!」 

赤松氏は足利尊氏に従って、後醍醐天皇に反旗を翻し、尊氏が幕府を開いた時にその功のおかげで所領をもらい、以後義教が将軍になるまで、ずーっと仲良しでした。赤松満祐がこの時の赤松家のボスでした。が、義教はこの赤松氏の一族の貞村を異常に可愛がり(貞村の娘が愛妾だったから)、赤松満祐の弟の義雅の所領を勝手に奪ってしまったのです。

そして奪った所領をお気に入りの貞村や細川持賢に分けちゃったのでした。これを知った満祐は激怒!なんとか返してくださいとお願いにいくも却下。満祐はめちゃくちゃブ男だったので、義教は「顔が気に入らない」とそのお願いを断ったのです。さらに義教は「満祐生意気じゃ!」と、職も格下げしてしまったのです。代わりに赤松氏のライバルである家を出世させ、赤松イジメをしたのです。


1441年6月24日 将軍暗殺!義教の恐怖政治が終わる 嘉吉の乱 

数々の義教のやり方に、とうとう赤松満祐の怒りは爆発!息子の教康とともに将軍暗殺を計画したのです。で、義教を祝賀するから来てくださーいと、自宅に呼びよせました。満祐は将軍義教のために、数々の珍味を用意し、能の舞台まで作るほど接待しまくったのです。もー義教チョーご機嫌♪

そこへ突然武装した集団が乱入して来ました。そこであっという間に義教の首を斬ったのです。赤松満祐はすぐさま自分の屋敷に火をかけ、所領である播磨へ逃げていきました。赤松は逃げたんだけど、細川持常・山名持豊らが赤松を追っかけとうとう赤松満祐は自害したのです。61歳でした。

そしてこの暗殺により、義教の恐怖政治は終わったのです。将軍が暗殺されたということで、将軍家の権威はガタ落ちしていくことになるのです。ちなみに赤松氏は滅び、その所領は山名氏のものに。滅んだ赤松氏の遺臣たちは度々所領を取り返そうと兵を挙げましたが、山名氏に鎮圧されまくりでした。

ちなみに、赤松満祐は自害する前に、弟の義雅の息子(8歳)を密かに逃がしました。その息子は成長し、赤松家は再興できました。それはまた後ほど


1442年 7代将軍 足利義勝 

7代将軍には義教の息子の義勝が8歳で将軍に。義勝が8歳ということもあって、将軍家の権威回復は難しかった。そうこうしているうちに、なんと義勝が赤痢により10歳で死去。しょーがないので、義勝の弟の義政が8代将軍に。この義政のだらしない政治が「戦国時代」の幕開けをさせることとなるのです。

義政は、まだこの時8歳だったので、もうちょっと大きくなるまで・・・と将軍になったのは6年後の14歳の時。それまでの間は将軍がおらず、「管領」が政治を取り仕切っていたのです。
 
1449年4月29日 8代将軍 足利義政 「お今だーいすき♪」 

義教の恐怖政治が終わったあと、義勝・義政とちびっこが続いたために、管領の力がパワーアップしていました。政治も全て管領が行いました。そして義勝が死んだ時に8歳だった義政も、ようやく8代将軍に就任したのです。が、「とにかく無事に丈夫に生きてさえいてくれればいい」という育ち方をしたため、ワガママで自分勝手に成長していきました。

また義政には大好きな女性がいました。自分の面倒を全て見てくれていた「お今の局」です。お今は義政より10歳年上で、一応乳母なんだけど義政を女性に目覚めさせた人です。つまり性教育の相手で、義政は性のてほどきを全て教えてもらい、お今がだーいすきなのでした。

「ボク、お今さえいてくれればいいんだ!」と、将軍はお今にメロメロ。そんな義政&お今にムカムカしていたのが実母の重子。重子は「日野家」の娘でした。3代将軍義満の頃に日野家の娘が「正室」になってから、代々将軍家では「日野家」の娘が正室になることになっていました。

重子は「あんな女狐にいいようにされちゃって!早く義政を日野家の娘と結婚させなくちゃ!」と焦りました。そして選ばれたのが日野富子だったのです。


1456年8月27日 日野富子 将軍義政と結婚する 

義政生母である重子は、お今の局が大嫌いでした。義政の母でありながら、お今の局にその立場を奪われたことが腹たって仕方なかったのです。重子が義政の結婚相手に選んだのが富子。この時、富子は16歳でお今の局は30歳。

重子は「富子のような若くてキレイで初々しい女性であったら、お今にも勝てるかもしれないわ。義政だって20歳になったんだから、そろそろ他の女に目移りする頃でしょ」と、読んだのでした。さらにお今の局が女児を出産しており、もし男児が生まれちゃったら大変!ってことで、富子は義政と結婚させられることとなったのです。

富子 「なんなのココ?」 16歳で正妻(御台所)となった富子。が、結婚してすぐに強烈なライバル「お今(今参りの局)」に出会うことになりました。「フン!あんたみたいなお子ちゃまにアタシを超えるのは無理よ」って感じのお今でしたが、実はお今も焦っていました。なんせ富子は16歳。しかも美人で血筋もいい。

「こうなったら、こっちも・・・」と、お今の局は富子よりも若い佐子(さんこ)という女性を義政の側室に差し出したのです。富子はビックリ!義政の母重子は激怒!「富子殿!こうなったら、佐子よりも絶対先に男の子を産むのよ!」とせきたてるのでした。御所では女のバトルが繰り広げられることとなったのです。


義政を取り囲む人々と時代背景 

義政には「三魔」と呼ばれる人がいました。お今・烏丸資任・有馬持家の3人で、みんな「ま」がつくことから「三魔」と呼ばれていたのです。さらに義政の育ての親である伊勢貞親というのもいて、義政はこの三魔+伊勢には逆らえないのでした。

また、世の中は一揆が吹き荒れていました。農民らは貧しさに耐えられず、豪商などを襲いまくっていたのです。ですが御所はそんなの「関係ないねー」といった感じで、誰が最初に男の子を産むかが最大の関心ごとでした。


1458年 御所は妊娠ラッシュ 

そんな中、お今の局の息のかかった佐子が妊娠しちゃいました。富子は焦りまくり。ですが、その何ヵ月後かに富子も妊娠したのです。義母の重子は大喜びでした。あとはどっちが男の子(世継ぎ)を産むか!?と、御所内は話題騒然となったのです。

ちなみに義政はすでに女の子が2人いました。佐子の子は3人目になります。そして佐子が出産。それは女の子でした。「また女か!」と義政はうんざり(ひどいよね)その1ヵ月後、富子は念願の男児を出産したのです。もー義政大喜び。お今の局はめちゃくちゃ悔しがりました。


お今の局追い出される 

初の男児誕生に大喜びの義政&富子。ですが、その男児が全然お乳を飲まないのです。そして生まれてから7日目、その男児は死んでしまったのでした。もう富子大ショック!おなかを痛めて産んだ念願の男児が死んでしまい、泣きまくりでした。

すると母親の重子が「これはお今の陰謀よ!お今が呪詛したに違いないわ!」と叫んだのです。お今の局は必死に弁解しました。心の中は「幼い頃から私のことをスキだった義政が、私を捨てるわけないじゃない」とは思っていたんですが、気の弱い義政は富子&重子の恨みつらみに耐える事ができなくなってきました。そしてとうとう、「お今を流罪にする」と宣言したのです。

お今の局はビックリ!正直義政は「とりあえず富子&重子が怖いから、琵琶湖の沖島に流すけど、ほとぼりが冷めたらまた戻しちゃお」と考えていました。ですが、こんなチャンスを重子らが見逃すわけがありません。重子&富子の兄である勝光は、お今がいなくなれば権力をゲットできるチャンスなのです。

そしてお今が流される時に、密かに「お今暗殺」を命じました。それを知ったお今は「殺されるくらいなら!」と、自ら喉をついて自害したのです。これにて御所内のお今一派の勢力はなくなり、富子は御台所として発言権をゲットすることとなりました。
 
義政「ワシ、もっともっと遊びたーい」

その後富子はまた妊娠・出産しましたが女児でした。義政は「もうワシに男の子は授からないんだ」と、さらに遊びまくるのです。政治にも飽き飽きしてしまい、風流三昧の生活をしだしました。ワガママに育った義政は、酒・女と毎日毎日遊びまくり。

世の中は飢饉に陥っており餓死者も続出しているというのに、そんなの知るか状態でした。あまりの幕府のだらしなさに朝廷の後花園天皇にまで「みんな飢えに苦しんでいて、かろうじて生き残った人々はわらびなどを採って飢えを凌いでおりますぞ?あなたは毎日何をやってるんですか?」と、嫌味を言われたんだけど義政はそれも無視。

懲りることなく自分の為の寺を建てたり、庭をキレイにさせたりと自分の遊びのことで頭の中はイッパイでした。そうこうしているうちに、重子も死んじゃって、義政はますます「文句言うヤツがいなくなったゼ」とばかり遊びまくるのでした。


1464年11月 義政「弟に将軍譲っちゃおっと」 

早く風流三昧の生活がしたくて仕方なかった義政。まだ30歳だというのに「いつまでたっても男児が生まれないし、この際、弟の義視に将軍譲っちゃおうかな・・・」と考え始めていました。この時、富子はまだ25才。これからでも男児を産むチャンスはいくらでもあるっていうのに、義政は「もし生まれたとしても、その子が成人するにはまだまだ時間がかかるよなぁ。ワシ、そんなに政治やりたくないよ」と思っていたのです。

弟の義視は母親が違う2才年下の弟で、4歳の時にお寺に入れられていました。義政は富子に内緒で、弟の義視のもとに「将軍にならない?」と使者を出したのです。話しを聞いた義視はビックリ。「だって義政はまだ30歳じゃん!これは何かの罠か?」と疑いまくりでした。

義視は「将軍職など、私には縁遠いものでございます。ご遠慮させていただきます」と返事をしました。ですが義政は諦めず、義視が驚くくらいしつこく誘ったのです。義視の方が面食らってしまい「だって義政殿には富子殿もおられるであろう?そのうち男児が産まれるであろうから、それまでお待ち下さい」と言ったんですが、義政は「大丈夫じゃ!ワシに男児が生まれても絶対将軍にしないから!寺に入れるから!」と言って来たのです。

ここまで言われた義視。義視が調べると、どうやら義政のバックには細川勝元がついてることがわかりました。細川勝元は日野勝光が富子の力をバックに偉そうにしているのが気にいらなかったのです。「あの義政が気まぐれでやってることなら危ないけど、細川勝元がついてるなら大丈夫かな。それじゃあ・・・」ということで、義政の誘いにOKしたのです。


富子ビックリ!「あんた何やってんのよ!」 

「義政が将軍職を弟の義視に譲った」というニュースを事後報告された富子。「はぁ!?なんですってぇー!何の相談もせずにあのバカ!」状態でした。さらに万が一富子に男児が生まれたら、その子供を仏門に入れると約束した・・・ということまで聞いて、富子は大激怒!

そんな中、富子が妊娠したということがわかったのです。富子は義政に「こんな大事な事を勝手に決めるなんて!何考えてんのよ!もし、今おなかの中にいる子が男だったら、悪いけどアンタの弟を将軍にさせないからねっ!」と義政にブーブー文句を言ったのでした。
 
1465年11月23日 富子 男児出産! 

1465年11月20日。次期将軍となるべく弟の義視が27歳にして元服式を行いました。義視の後見人として細川勝元が選ばれました。その3日後、富子がとうとう男児を出産したのです。それを聞いた義政は大喜び。「やっと男の子が産まれたぁ!」と喜びの色を隠せませんでした。

将軍と御台所(正室)との間に生まれた、由緒正しき血筋の男児である義尚(よしひさ)ですが次期将軍は弟の義視に決まってしまっている。さらに産まれた由緒正しいその男児は、寺に入れると約束してしまっている・・・・。将軍家に怪しい空気が流れ出すのです。


管領細川勝元VS山名宗全 

義視の後見人となった細川勝元。管領というのは、三代将軍義満が一つの家に権力が集まらないように山名・細川・斯波の3つの家に順番にやらせるようにした「役職」でした。若くして管領になった細川勝元は、もう1人の管領である畠山持国に負けたくない!と、四識(侍所長官を担当。山名・一色・赤松・京極の4家で交代)の1人で、父親くらいの年齢である山名宗全(やまなそうぜん)に近寄りました。

山名宗全は、元々は新田系だったため足利一門とは認めてもらうことができない家柄でした。そのため、三管領に選ばれなかったのです。ですが、足利尊氏と弟直義の対立に乗じて勢力を伸ばし、嘉吉の乱の時に赤松満祐を滅ぼして沢山の所領を貰い、当時の実力者となっていました。

宗全の方も若い管領である勝元が頼ってきたので、自分の地位をさらに強くするチャンスと、勝元を可愛がり、自分の娘を嫁がせたりしたのです。宗全は勝元を何かにつけては助け、娘と勝元の間に子供が生まれないというので、自分の末っ子である豊久(とよひさ)を養子にするなど、親密な関係を築いていました。

ところが!勝元も次第に管領職に慣れていき、畠山持国と同じくらいのレベルまでのし上がってくるように。こうなると何かと口を出してくる宗全が逆にうざったくなってきたのです。さらに勝元に息子が産まれました。そうなってくると宗全から貰った養子の豊久が邪魔になってきたのです。

勝元は「どうせなら細川家の後継ぎは自分の子にしたい。宗全は怒るだろうけど、オレはもう昔のオレじゃないし。」と強気になり、豊久を寺に入れてしまったのです。それを知った宗全は激怒!豊久を寺から還俗させ、自分のもとに引き取りました。このような経過があったため、山名宗全と細川勝元は今やめちゃくちゃ仲が悪くなっていたのです。


義尚の後見人は山名宗全に決定! 

義視の後見人が細川勝元であれば、こちらは・・・・と、考えたのが富子の兄である日野勝光。勝元に対抗できるほどの実力のある人は、山名宗全しかいないだろう!と、宗全に義尚の後見人になってくれるよう頼んだのです。勝元に裏切られ、怒っていた宗全は二つ返事でOKしました。こうして次期将軍義視には管領 細川勝元が。義尚には実力者 山名宗全が後見人となったのです。


管領 斯波氏の家督争い 

将軍家が後継者問題で怪しい影が見え始めていた頃、三管領の斯波氏と畠山氏もマズイことになっていました。斯波氏では当主の義健(よしたけ)が後継ぎを決めないまま死んでしまいました。重臣達が話し合った結果、一族の義敏(よしとし)が選ばれたのです。が、この義敏は重臣達とイマイチ気が合わず、ケンカして追放されてしまったのです。

義敏の後には、一族の遠縁である義廉(よしかど)が選ばれました。納得いかないのが義敏でした。細川勝元に「将軍義政から、おれんとこの重臣を言い聞かせ、義廉を追放してよ!」とお願いしに行ったのです。義政は勝元に後見人になってもらったということもあって、素直にそのお願を聞き入れ、なんと義廉を追放しちゃったのです。ここに飛び出してきたのが山名宗全。

宗全は義廉が斯波家の後継ぎになると決まった時に、自分の娘と結婚させる約束をしていたのです。宗全は義政に「勝手なことをされても困る!義廉の追放を取り消せ!さもなくば兵を出して義敏を追っ払いますぞ?」と脅してきたのです。義政は怖くなっちゃって、義廉を許すという事態に発展してしまいました。
 
管領 畠山氏も家督争い! 

さらにタイミングの悪いことに、管領畠山氏でも問題が勃発。畠山氏の当主である持国にも子供が生まれませんでした。そこで持国は弟の持富(もちとみ)の子である政長(まさなが)を養子に迎えたのです。ところが、政長を迎えた直後に側室が義就(よしなり)という子供を出産してしまったのです。

将軍家と全く同じですね。当主の持国も「後継ぎはやっぱり自分の本当の子だよなぁ・・・」と思い、養子の政長を廃して、実子の義就に後を継がせちゃったのです。政長派の家臣達は、細川勝元に「持国を隠居させて、義就を追放してよ!政長を畠山家の当主にしてくれよ!」とお願いしちゃいました。勝元はあっさり「うん、いいよ」とOKしちゃったのです。

納得できないのは義就派。細川勝元の対抗馬である山名宗全に「どうにかしてよ!」とお願いしちゃったもんだから、大変なことに。宗全は後見人を務めている義尚の母である富子にお願いし、義政に何とか言ってよとお願いしたのです。将軍義政は、義視を次期将軍にしてしまったという負い目もあり、富子に逆らえませんでした。

「全て富子の言うとおりにしますヨ」と、発言しちゃったのです。すったもんだの挙句、なんとか後を継いだのは養子の政長でした。勝元VS宗全の争いに加え、バカ将軍の適当な裁決により、幕府はめちゃくちゃになっていくのです。


幕府はぐっちゃぐちゃに! 

将軍家の後継ぎ問題に始まり、三管領でもぐちゃぐちゃの家督争いが続きました。どの争いにも全て細川勝元と山名宗全が絡み、二大派閥は対立しまくることとなったのです。そこに頼りない将軍義政が適当で無責任な裁決をするもんだから、争いの種はますます広がっていくのでした。

さらに義政は「やっぱ自分の子が一番可愛いよな」と、絶対息子を将軍にさせない!と誓って、義視を迎え入れたというのに、その約束をどうにか撤回できないもんか?と考え出したのです。そこに側近の伊勢貞親が「義視が早く将軍になりたいからって義政殿をどーにかしてやろうと考えてるそうですヨ」と諫言してきました。

これはラッキーとばかり、義政は義視を捕らえようとしました。危険を察知した義視は、後見人である細川勝元の所に逃げ込みました。が、勝元は「義政はすでに義視を将軍にさせるつもりはないのだなぁ。義視の味方をしてるとワシは損なんじゃないか?」と思うように。そう読んだ勝元は、後見人でありながら義視を追放させるべく動き出したのです。


義視 伊勢へ逃げる 

勝元が自分を追放しようとしている!と、感じた義視は、仕方なく伊勢へ逃げ込みました。無理やり寺から「将軍にしてやるから来い」と引っ張り出された義視は、義政と勝元に見捨てられてしまったのです。ところが!ここでまたもや飛び出してきたのが山名宗全。

敵であったはずなのに、勝元憎さから義視に救いの手をさしのべたのです。「せっかく憎い勝元と将軍が不穏な感じになってたっつーのに、モトサヤに収まっちまったぜ!こうなったら何が何でも勝元に対抗したる!ワシの意地じゃ!」と、宗全は義尚の後見人でありながら、義視を助け出したのです。

もはや信じられない状況となっていました。かつての敵と味方が入れ替わってしまうという、とんでもない事態に発展していったのです。
 
山名宗全「おのれ勝元めぇー!」 

こんな状況の中、なんと滅ぼしたはずの赤松氏が、生き残った12歳の赤松政則をひっさげ「赤松家を再興させてくれー」とお願いしてきたのです。もちろんバックは細川勝元。山名宗全の鼻を明かすために、わざと赤松家の味方についたのでした。

義政は「うん。OK」とあっさり許可し、赤松家は再び日の目をみることとなったのです。もー山名宗全は激怒しまくり!「勝元めぇぇぇぇぇ!今に見ておれぇぇぇぇ」と、山名宗全VS細川勝元はさらに火花を散らしたのです。

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