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  <title>ザ歴史！彼方が忘れている日本の歴史がここに！</title>
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  <description>歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。</description>
  <lastBuildDate>Sun, 13 Dec 2009 02:48:51 GMT</lastBuildDate>
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    <item>
    <title>室町幕府の衰退・戦国時代へ</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff0000"><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国時代スタート</font>&nbsp;<br />
</font><br />
戦国時代とは、1467年応仁の乱から始まったといわれ、終わりにはさまざまな説があります。</p>
<p>①信長が京都へ上洛した1568年<br />
②信長が将軍足利追放し室町幕府が滅亡した1573年<br />
③秀吉が天下を統一した1590年<br />
④家康が将軍になった1603年<br />
⑤家康が豊臣家を滅亡させた1615年</p>
<p>応仁の乱によって将軍の権威は地に落ち、京都は殺戮と略奪の修羅場となってきました。だらしない幕府の政治のツケが地方に飛び火していったのです。世の中は乱れまくり、地方では家来が主人を討ち、子が親を討つなど下剋上の風習が出始めてきたのです。野党や一揆・反乱も流行り、<br />
<br />
全ては自分の腕のみが頼りとなってくる時代の到来です。農民だろうがなんだろうが、自分の実力のみで富と権力を得られる時代に。幕府の権威をたてに偉そうにしてきた守護大名は、時代の波に乗り遅れ没落していきました。そして実力のある大名は近隣を攻め、領地を拡大し勢力を広げていくのです<br />
<br />
。勝つためには手段を選ばない時代の到来。それが戦国時代なのです。大名は、争いで頑張った武将に恩賞（ご褒美）として土地を与えなければならないので、恩賞がなくなると、新しい土地が必要になる。で、新たな土地を得るために合戦！そしてまた恩賞という悪循環が続いたのが戦国時代です。<br />
<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国時代の基礎知識</font>&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">下剋上（げこくじょう）とは</font><br />
<br />
下剋上とは下の者が上になって、権力を奪い取るというもの。古代律令制の社会では、天皇から貰う官位によって人間の価値が決められており、下の人間が上の人間をやっつけるなど許されない行為でした。ですが「下剋上」という言葉自体は鎌倉時代から使われており、武士の時代とともに「力のある者が上にいく」という風習は出始めていたのです。<br />
<br />
そして下剋上現象が決定的となったのが、この戦国時代なのです。応仁の乱以後、力のある者が台頭してきました。それまではお偉いさん（公家）が荘園を持っており、実体のない権威をふりかざしていました。そこへ実力のある武士が横領・強奪を始めたのです。<br />
<br />
権力だけを持っていて武力のない公家連中はされるがまま。下剋上という言葉は落ちぶれていく公家の怨恨こもった言葉なのです。最高の下剋上を成し遂げたのは、農民から天下人となった豊臣秀吉です。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">守護大名と戦国大名の違いは</font>&nbsp;<br />
<br />
「守護大名」や「戦国大名」という言葉は、第二次世界大戦後に定まったものです。守護の没落と新しい勢力をわかりやすく区別するためにつけたれたのです。「守護」は鎌倉幕府からありましたが、その頃はたいした権力を持っていませんでした。幕府によって「そこの地方をおまかせしますよ」という、一応は一国のボスとなっていたのです。<br />
<br />
それが南北朝・室町時代にかけ守護の力がつきはじめ、今で言う「知事」レベルにまでなってきました。そして地域の武士達を家臣とし、リーダーになっていき「地方のボス」となっていったのです。「戦国大名」というのは、自分の実力によりのし上がってきた人の事をいいます。<br />
<br />
北条早雲や斉藤道三などがいい例です。守護大名の中でも武田信玄や島津義久のように守護大名から戦国大名へ脱皮した例もあります。ですが、守護大名から戦国大名になる過程は簡単なものではありませんでした。<br />
<br />
実力がものを言う時代になってきたので、弱い「守護」つまり｢主君」には誰もつきたくない。そのため有力な家臣が下克上を起こすケースもありました。戦国大名は「幕府」の権威をまったく頼らず、独自の力のみでのし上がってきたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名にとって「天下」とは&nbsp;<br />
</font><br />
戦国時代の大名にとって「天下」とは、京に上がって自分の家紋の旗を挙げることが目標でした。この頃の天皇ははっきりいって超貧乏！応仁の乱によって京都は荒廃しており、建物の修繕費などでオカネが全然ありませんでした。もちろん幕府もね。<br />
<br />
天皇は「神」みたいな存在で、政治のことは全て幕府頼み。天皇の仕事は官位を授けたり、改暦（年号を変えること）などでした。天皇というのは「神」みたいなものと崇められ、桓武天皇以来ずーっと京都を都としていたので、その天皇のお膝元である「京都」を制した者が天下を取れるというわけです。<br />
<br />
実力はないけど「天皇」はエライ！ 実力もなく、ただ名前だけの天皇でしたが、それでも武将にとっては「天皇」というだけで敬うべき存在でした。「天皇」は腐ってようがなんだろうが「天皇」なのです。皇居の修理を依頼されるなんて、大名にとってめちゃくちゃ名誉なことで、みんな大喜び。<br />
<br />
さらに天皇から「官位」をもらうってのは、とってもすごいこと！！戦国大名にとっては官位を授かるということは、まわりの大名に｢オレは天皇に認められているんだぞ！」と超自慢できることでした。また領地拡大や、領地支配にも影響を与えるのです。「うちの殿様は天皇から官位を授かるくらい素晴らしいヒト」というカリスマが出てくるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国武将の教育カリキュラム<br />
<br />
</font>力の支配する乱世を勝ち抜くには、武芸はもちろんでしたが、何も知らないと馬鹿にされるので学問や教養も大事でした。馬鹿なヤツがお家の大将になったら、お家滅亡となってしまう時代だったため、戦国武将たちは「家を守るため」に、自分の息子を「将になる器」に育てるべく、熱心に教育したのです。武士の息子は「寺」に入れられ僧侶に勉強を教えられました。<br />
<br />
一般的な教育カリキュラムは<br />
<br />
8歳くらいまで・・・遊びながら協調性を身につけさせる。家臣の子供達と交わり、集団の中で社交性を身につけさせる。シツケはめちゃくちゃ厳しい<br />
<br />
10歳～13歳・・・「読み・書き」を教える。下級武士や庶民の子はココどまり。エリートコースになると次に続く<br />
<br />
13歳・・・本格的に時間割を組まれ勉強！読書・手習い・経文を読むなど。毎朝6時に起きて決められた勉強をし、終わるのは夜の11時ごろ。読書は般若心経など。<br />
<br />
14歳・・・本格的な漢字勉強。武将としての兵書も教わる。和歌にも取り組む。<br />
<br />
15歳・・・さらに難しい漢字勉強！またこの頃から初陣に出るようになる。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名の「城」は&nbsp;<br />
<br />
</font>日本において｢城」は約4万作られました。その中のほとんどが戦国時代に作られたものです。城は軍事拠点となり、攻めにくく守りやすいでなければいけませんでした。「城作るぞー！」と決めたら、まず築城目的にあった土地を探します。お次は「設計」そして「工事」となります。<br />
<br />
城の中身はというと・・・</p>
<p>本丸・・・城の中心部。城主の部屋もここにあります。お客さんと対面する部屋もここ。</p>
<p>二の丸・・・本丸を囲む建物。藩の役所や武器の倉庫がありました。</p>
<p>三の丸・・・重臣の屋敷。お蔵。馬小屋などがあります。</p>
<p>西の丸・・・城主が隠居した後に住むところ。本丸の西におくため「西の丸」<br />
<br />
戦国時代の築城名人として有名なのは藤堂高虎。他にも太田道灌（どうかん）・加藤清正・松永久秀などがいます。名城と呼ばれているのは安土城（織田信長）江戸城（徳川家康）大阪城（豊臣秀吉）。他にも聚楽第・姫路城・熊本城・名古屋城などなど。ちなみに武田信玄は「城」を一つも作りませんでした。そのため「お館様」と呼ばれていました。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名の家紋</font>&nbsp;<br />
<br />
家紋は、昔からあったそうですが、代々受け継がれるようになったのは平安時代の末期からです。お偉いさんたち（京都の公家・マロども）が、自分の牛車や洋服に好みの文様をつけたのが始まりだそうです。そして公家達の中で流行し、「人とは違うかっこいいモノを！」と、お偉いさんたちが美意識バリバリの家紋を作ったのです。<br />
<br />
最初武士には家紋がなかったんだけど、敵味方を区別するためにとりあえず簡単な旗を造りました。それが次第に「一族の名誉をあらわすんだから、素敵なデザインにしなきゃ！」というものになってきて、戦国時代に完璧な家紋ができるようになってきたのです。<br />
<br />
ちなみに皇室の紋は「桐紋」桐には鳳凰が宿るということで、古くから上流貴族に人気がありました。これが皇室紋として正式に用いられるようになったのは鎌倉時代の末期です。武士として初めて天皇から「桐紋」を賜ったのは足利尊氏でした。この時「菊紋」も一緒に使うことを許可されました。<br />
<br />
天皇から「紋」を賜るということは最高の名誉で、尊氏は拝領したこの紋を自分の一門である新田・今川・一色・斯波・細川・畠山などに与えました。ちなみに信長も後に足利将軍から「桐紋」を貰ってます。秀吉も「桐紋」をゲットしましたが、友好関係を深めるため色んな人にプレゼントしちゃったため「桐紋」の価値がガタ落ちし、のちに「むやみにばらまくな！」と、禁令を出すほどになりました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名の家訓</font>&nbsp;<br />
<br />
家訓とは、自分の「家」のプライベートな部分を決めたものです。自分の「国」の法律みたいなものは「家法」です。戦国時代を生きた武将達が、自分の経験から得た知識や反省・要望などをまとめ、のちの子孫や家臣に守るように残した教えのようなものです。家訓にはその人の人生観や道徳観など、色んな思いが溢れています。<br />
<br />
ユニークなものをあげると・・・</p>
<p>武田信玄・・・戦場で死にたくないと思うな。そう思うと逆に死ぬぞ！</p>
<p>織田信長・・・何事も信長の言うとおりにしろ。信長の後姿も大事にしろ！信長に足を向けるな！</p>
<p>徳川家康・・・贅沢をするな。得意なことはやらなくていい。苦手なものを努力しろ。人を憎むな。敵を作るな。うがいした後の水は飲め。</p>
<p>上杉謙信・・・すべて「心に～」から始まる16項目で、「心に曇りなきときは心は静かなり」「心におごりなきときは人を敬う」などなど</p>
<p>北条早雲・・・他人の意見をよく聞け。ウソを言うな。具合が悪くても髪の毛をきちんとしろ。朝は4時起き・夜は8時に寝ろ</p>
<p>吉川元春・・・流行ファッションは禁止。奥さんを大事にしなさい。妻は夫の勝手によって離婚されたら慰謝料は好き案だけ貰いなさい。</p>
<p>黒田如水・・・茶碗を大事にしなさい。茶碗はきちんと洗いなさい</p>
<p>六角家・・・不倫をした妻は相手とともに殺せ！</p>
<p>今川義元・・・喧嘩両成敗である。子供のけんかには関わるな。</p>
<p>蒲生家・・・親戚が貧乏になったら自分の財産をちょっと与えろ。</p>
<p>鍋島家・・・占いに頼るな<br />
<br />
とまぁ、いろんな家訓があります。ちなみに豊臣秀吉は「家訓」を残していません。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">家臣団の組織作り</font>&nbsp;<br />
<br />
戦国時代の家臣団はざっと４つに分けられます。</p>
<p>一門（いちもん）・・・大名と血縁関係にある上級家臣</p>
<p>譜代（ふだい）・・・一門より血縁関係が薄い人や、古くからずっと家臣として服従していた人たち。</p>
<p>外様（とざま）・・・合戦した時に服従した相手側の人で、大名にとって一番やっかいだった人たち。</p>
<p>直臣（じきしん）・・・直接主君に属している家臣。大名の親衛隊みたいなもの。</p>
<p>武士というのは、鎌倉幕府依頼から「御恩」と「奉公」をモットーとしてきました。<br />
<br />
戦国時代も大名は領地を確保してあげるから、その代わり戦えよ！というのはありました。ですが、戦国時代は鎌倉時代よりもっと複雑に各地で大名が名乗りをあげていた時代。裏切り・寝返りなど日常茶飯事。そのため大名も「結束」を高めるために苦労しました。婚姻関係を結んだり、名前を一字あげたりと、家臣団をまとめるために必死だったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">この時代の「同盟」とは？</font>&nbsp;<br />
<br />
戦国時代はまわりは敵だらけ。そこで他の国と「とりあえず共同戦線はっときましょう」と行われたのが「同盟」です。お互いの領地を侵略するのをやめましょうね！というものや、攻めるのも守るのも共に協力してやっていきましょう！という結びつきの強いものなど、色々とありました。「同盟」を組んだとはいっても、裏切りはつきもの。<br />
<br />
同盟相手の国の分が悪くなってくると、さっさと破棄するパターンも沢山ありました。で、「同盟」の保障として娘を相手の国に嫁がせたり、自分の子を人質に出したりしました。いわば「担保」です。「担保」を送り込もうが生き残りゲームに勝ち残るためには「裏切り」はあります。<br />
<br />
1人の命より「家｣の方が大事でしたから。裏切りが発覚すると、「担保」は見せしめとして、無残な方法で殺されてしまうのです。人質として有名なのが徳川家康。信長も浅井長政と同盟を組むときに、取って置きの切り札「お市の方」を嫁がせました。家康も同盟の証に長男を信長の娘を結婚させてます。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国時代の食事は？</font>&nbsp;<br />
<br />
「腹が減っては戦ができぬ」を地でいってたこの時代。主食は今のような白いお米ではなく「赤米」や「黒米」でした。「白いお米」は公家や大名クラスしか口にすることのできない超高級品。農民クラスになると「赤米」なんかもご馳走でした。戦国武将の食事タイムは1日2回。朝と夕方で、量にすると1人1日５合食べてました。<br />
<br />
おかずは野菜の煮物や海苔・梅干・お漬物などなど。ご馳走というと、魚や鳥が出てきました。味噌汁もありました。だけど大豆ではなく糠味噌汁。大豆味噌汁は貴重品でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">食事のマナーは？</font>&nbsp;<br />
<br />
戦国時代は食事の作法がこと細かくありました。まずお客さんの家でお酒を出された時、全然飲まないというのはマナー違反。また高価な魚が出た場合、真っ先に手をつけないこと。食べたいのを我慢して、1･2回ちょこちょこっと箸をつけるだけ。また主人より先に食べ終わるのはNGでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名のお食事スタイル</font>&nbsp;<br />
<br />
織田信長・・・早食いの信長が大好きなのは湯漬け♪今で言うお茶漬けです。また味は辛めのが好きでした。</p>
<p>徳川家康・・・美食・暴飲・暴食が嫌い。健康志向だったので麦飯・焼味噌を食べてました。</p>
<p>上杉謙信・・・モト坊さんだけあって粗食。食事は一汁一菜でしたが、合戦前だけはありったけの食材で家臣らに大盤振る舞いしました。またすごいお酒好き。毎日ドンブリでお酒を飲んでました。酒の肴は梅干。</p>
<p>伊達政宗・・・料理に対する考え方はプロ並み。粗食でもさりげない置き方とかにこだわりました。</p>
<p>豊臣秀吉・・・珍味大好き！豪華な食事大好き！の秀吉でしたが、ふだんは麦飯が好きだったらしい。</p>
<p>北条早雲・・・88歳まで生きた早雲は、老人になっても歯も抜けないくらい超健康。そんな早雲の食生活は旬の山菜をたんまり入れた味噌汁。梅干も毎日欠かしませんでした。</p>
<p>斉藤道三・・・モト油売りだけあって、油を使った料理をよく口にしてました。<br />
&nbsp;<br />
&nbsp;<br />
&nbsp;<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国時代のトレンディ「茶の湯」</font>&nbsp;<br />
<br />
武将達はストレスたまりまくり。そんなストレスを癒し空間で静かな精神状態になりましょーということで「茶道」がブームに。そして度々上流階級では茶会が行われるように。ですが、茶会は密談するのに絶好の場だったのです。なんせ密室に数人しかいないのだから、漏らしたくない話をするのに最高の場でした。<br />
<br />
そのため「茶の湯」は、いつしか戦国武将たちになくてはならないモノとなっていくのです。さらに茶をたしなむというのは上流階級だけができること。茶の湯は武将達のスティタスシンボルとなっていったのです。ちなみに茶器コレクターで有名なのは織田信長。茶室で有名なのは、秀吉の黄金の茶室。名器好きなのは松永久秀でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">セレブの基本「和歌」</font>&nbsp;<br />
<br />
馬鹿じゃ大将にはなれないこの時代、「教養部門」で大事だったのが茶の湯と和歌でした。和歌は傷ついた心を慰めたりしてくれるものだったそうです。その教養の発表の場は「連歌」連歌とは、数人の武士が一列に座って順番に歌を詠むもので、前の人が詠んだ歌を次の人が受けて詠むというもの。<br />
<br />
合戦の前によくやったそうで、連帯感を保つために連歌は大事なイベントとして行われました。だけどセンスのない武将もいたので、代わりに主君に代わって歌を詠むという商売も出てきました。ちなみに和歌のセンスが一番あったのは、戦国時代のインテリ男・細川幽斎だそうです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">お手紙について</font>&nbsp;<br />
<br />
この頃の通信手段は「手紙」しかありませんでした。相手に意志を伝える唯一の通信手段だったため、数多くの手紙が残されています。笑えるものや感動するものなど、沢山ありますので、のちほどチョコチョコと紹介してます。<br />
&nbsp;<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">馬は今の高級車！？</font>&nbsp;<br />
<br />
この時代、馬を持っているということは武士の中でもある程度の階級であるということを示すスティタスシンボルでした。馬は戦国武士の宝だったのです。が、この頃の馬は「ポニー」よくテレビではサラブレッドにまたがり、颯爽と走るシーンがありますが、アレは違います。何度もいいますが実際は「ポニー」です（笑）<br />
<br />
武田の騎馬隊で知られる武田軍の馬が発見されたましたが、馬の高さは120cmしかありませんでした。ちなみに幕末、外国人が日本人の乗っている馬を見て「日本人は馬のようなものに乗っている」と言ったそうです。ということは、武田の騎馬隊の活躍とかはどうなの？？？ということになってしまいますが、実際は馬から降りて戦ったのではないかと言われています。だけどそれじゃあロマンがないので細かいコトにこだわらず定説どおりかたらせてもらいます！<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名のファッション</font>&nbsp;<br />
<br />
普段着としての基本ファッションは小袖・肩衣・袴でした。小袖は今で言う「シャツ」で、もともとは上流階級の下着。肩衣は「ベスト」みたいな感じ。これがのちに裃になります。袴は「ズボン」です。馬に乗るため裾は絞ってるあるのが多かった。身分の違いがわかるのは「素材」当時は麻がほとんどでしたが、お金持ちは木綿や絹を着ていました。<br />
<br />
この頃は「お茶」が流行しまくってたので、流行色は「茶色」でした。ちなみに男性は袴の下にふんどしでしたが、女性はノーパン・ノーブラでした。また有名なファッションは「信長うつけファッション」ホスト並みにゴージャスだったのは伊達政宗。「伊達男」という言葉ができるくらいですから。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">武将達の信仰心</font>&nbsp;<br />
<br />
エリート武将の多くは、幼い頃にお寺で教育を受けていたので、自然に仏教と関わっていました。また常に死と隣り合わせの時代だったので、神仏にすがり心の安定を求めていました。さらに｢死後の世界」とか「因果」を信じていたので、少しでも罪の意識をやわらげるために、熱心に信仰を行っていました。<br />
<br />
そんな武将の中で異色なのが織田信長。まったく神仏を信じずにいました。信じるどころか、大嫌いだったのが松永久秀。特にキリシタンは大嫌いでした。人一倍信仰心が強かったのは上杉謙信。「生涯不犯」を貫き、結婚もしなかった。また仏教以外にも熱心な「キリスト教信者」もいました。「仏教では戦乱の世は救えん！デウスなら救える！」と大友宗麟などのキリシタン大名が多くでました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国大名の初陣</font>&nbsp;<br />
<br />
武士の子が初めて戦に出ることを「初陣（ういじん）」といいます。年齢は決まってはいませんでしたが、だいたい元服してからなので１４才くらいからが多かったようです。大将クラスの息子の初陣となると、重臣らが時期や戦場を十分に吟味して選びます。というのも、初陣から負け戦となった場合、ずっと笑いものとされてしまうので、絶対に勝つ！という戦を初陣にしました。大将クラスの息子の初陣は「勝負に行く」のではなく、一種の儀式のようなものだったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">出陣前のルール</font>&nbsp;<br />
<br />
戦国大名にとって「合戦」は生きる死ぬかの大勝負。さまざまな縁起担ぎやルールがありました。まず最初に出陣日などを「おみくじ」によって決めました。また軍師が占いによって決めるなど、さまざまなパターンがありました。そして「いざ！出陣」となった時に欠かせないのが「三献（さんこん）の儀式」<br />
<br />
3つ重ねた盃を置き、その盃の中には打鮑（うちあわび）勝栗（かちくり）昆布が載せられており、その間に置かれた盃に酒をそそぎ、主君が飲み干すというセレモニー。この３つには「打つ！勝つ！喜ぶ！」の意味が込められていました。ちなみに、この３つは消化が悪いため、ちょっと口にするだけ。大将が下痢ピーになったらカッコ悪いもんね。で、盃を飲み干すと、主君が「えい、えい」といい、家臣らが大きな声で「おう！」といいます。<br />
<br />
ちなみにこの「えいえいおう！」は勝ち戦の後にも言います。これを「勝鬨（かちどき）」といいます。また合戦前は絶対に「女性」と関わるのはNGでした。これは後ほど詳しく書いてますが、当時女性は「汚らわしいモノ」だったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">みんなすがった合戦の「軍神（いくさがみ）」とは？</font>&nbsp;<br />
<br />
武将らは合戦に行く前にすがる「軍神（いくさがみ）」がいました。実在していたとされる「人」としてスサノオノミコト・神功皇后・ヤマトタケルノミコト・坂上田村麻呂などが「軍神」であったり、仏教の教えから「軍神」となった不動明王・摩利支天（まりしてん）・弁財天・鬼子母神・大威徳（だいいとく）明王などがいました。<br />
<br />
軍神についてちょこっと説明すると</p>
<p>摩利支天・・・インドの月や陽炎を支配している神様。武田信玄が信仰していました。</p>
<p>弁財天・・・日本では福徳の神様として尊敬され、七福神の1人とされました。</p>
<p>不動明王・・・如来が民衆を救うため、怒った姿で現れる時の仮の姿だそうです。</p>
<p>大威徳明王・・・毒蛇や悪龍を倒す明王で、手に剣を持っている姿のため軍神として尊敬されていました。</p>
<p>スサノオノミコト・・・日本神話の人で、ヤマタノオロチを退治した人</p>
<p>ヤマトタケルノミコト・・・熊襲（くまそ）討伐で活躍した人。</p>
<p>坂上田村麻呂・・・蝦夷討伐で活躍した人</p>
<p>神功皇后・・・日本のジャンヌ・ダルク（？）。女性でありながら自ら軍船を率いて新羅を討伐した人。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国武将の率いた兵はどんな兵？</font>&nbsp;<br />
<br />
「合戦」というと、立派な鎧を着た多くの兵が戦うところをイメージしますが、実際は？？？でした。というのも、兵のほとんどが自分の領地の農民だったからです。合戦が始まると領内には文書が出回ります。そこには「15歳から70歳の男児は全て出陣すること」とあり、とりあえず武士らしくしてこいとつけたしてありました。<br />
<br />
そのため農民らはとりあえずスタイルで合戦に挑むのです。合戦で死んだ人のうち本当の武士は1割程度で、あとは防備もままならない農民がほとんどだったのです。もっとも農民の中にも「ここで手柄をたてて家臣にしてもらうぞ！」と張り切ってる人もいました。ですが合戦となると飛び道具や刀を持って華々しく活躍する武将とは裏腹に、丸腰状態の農民は殺されまくったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">合戦の時の食事は？</font>&nbsp;<br />
<br />
普段は粗食な武将でも、合戦になると話は違います。気持ちを高め、勝利をおさめるために大将は兵士たちにたらふく食べ物を与えました。普段あまり食べることの出来ない「米」も食べさせてもらえたし、雉料理なんかも出てみんな大喜びでした。こうして合戦前はスタミナ補給＆栄養補給をバッチリとって、備えるわけです。<br />
<br />
合戦に入ると夢のようなご馳走生活とはおさらば。生きるか死ぬかの場となるのです。「干飯（ほしいい）」という、白米を水で洗って粘りをとって乾燥させたものを配られました。干飯は合戦中でもぽりぽりと食べれるし、水を入れればふやけるし（インスタント食品みたい）、おなかを満たすのにバッチリでした。<br />
<br />
また塩分補給のため｢味噌」を紙に包んで携帯していました。こうしてとりあえず3日間くらいは生きれるくらいの食料「腰兵糧」を持たされ、兵は戦うのです。<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600"><br />
<br />
「陣形」ってなに？</font>&nbsp;<br />
<br />
「陣形」とは、中国の名軍師「諸葛孔明」が造ったものと言われています。さまざまな陣形がありますが、有名なのは平安時代中期の学者が紹介した「八陣の法」です。</p>
<p>魚鱗の陣・・・敵陣に対して「へ」の形で布陣するもの</p>
<p>雁行の陣・・・雁の飛ぶ様子に似ていることからつけられた名前で、斜めに布陣する陣形</p>
<p>その他にも「長蛇」鶴翼」「方円」などなどがあります。<br />
&nbsp;<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">合戦でヒーローに！「一番槍」「一番首」になるには</font>&nbsp;<br />
<br />
合戦においては「一番槍」「一番首」が最も名誉なことでした。一番槍というのは、最初に敵と槍を合わせた者を言います。勝敗は関係なく一番に向かった勇気を賞賛したものです。戦国時代も中期となると、一番槍をあらかじめ決める場合もありました。一番首は、最初に討ち取った首です。これら「一番槍」「一番首」になるということは武士にとって最高の名誉でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">武士の「死」の美学&nbsp;<br />
</font><br />
武士達は常に死と隣り合わせでした。そして武士達が必死で守り抜こうとしていたのは「家」でした。武士達はとにかく自分の死をプラスにしながら死ぬことを望んだのです。自分が名誉ある死を遂げるということは、「家」の存続に関わってくるからです。武士にとって「捕虜」は最大の屈辱でした。<br />
<br />
捕虜になるくらいなら自害をする。つまり潔く死ぬというのが美学だったのです。潔く死ねば、主君に褒め称えられ自分の息子やその一族は安泰なため、武士達は華々しい死に方を望みました。戦場では潔い・華々しい死に様を見せ、自分の名を後世に残し、「家」を存続さえることが戦国武将たちに「死のパフォーマンス」させることとなったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">首実検とは？</font>&nbsp;<br />
<br />
首実検とは、戦いで勝ったチームの大名が行うものです。首を並べ、討ち取った首の数や有名な武将を討ち取った者に褒美が出るという、武士達にとってはめちゃくちゃドキドキする場でした。討ち取られた首は女性が首を洗い、化粧をほどこしました。<br />
<br />
石田光成の家臣であった山田去暦（きょれき）の娘に「おあむ」という20前後の女性が残した「おあむ物語」に、戦国時代の女性の様子が書かれています。おあむはこの時、父が関ヶ原の戦いで三成側につき、大垣城に籠城していました。おあむによると、城の中で敵の首を洗い、髪の毛を整え顔に白粉をし、お歯黒を塗ったりしていました。「生首は怖くはなかったけど、血なまぐさい部屋に寝起きしたのは気持ち悪かった」と言っています。<br />
<br />
首実検の終わった首は晒されたり、捨てられたりしました。名高い武将の首は丁重い葬られたり、敵方へ送り返されたりもしていました。戦国時代末期になると、首を持ちながら歩くのが大変になってきたので、首の代わりに耳や鼻を削いで倒した相手の数を競うようになってきました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">野戦・城攻め・籠城って？</font>&nbsp;<br />
<br />
この時代の戦い方は城を舞台としたものと、野戦があります。野戦では、野原が舞台となったり「○○原の戦い」など、河原が舞台となったりしました。城を舞台としたものは、守る側は「籠城戦」で、攻める側からは「攻城戦」となります。城の攻防戦は時間がかかり、激しい戦いになっていました。<br />
<br />
一番ノーマルな攻め方は「力攻め」で、力任せにガンガン攻めるというもの。ですが守る方も必死なので、城内から鉄砲や弓をバンバン撃ったりしたので、犠牲も多くなりました。時間がかかるけど「兵糧攻め」も多く行われました。城外から運ぶ食べ物を一切遮断するというもので、豊臣秀吉が得意としていた戦法です。また水攻めといい、城の周りの地形を考え川をせき止め水浸しにするという作戦もありました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">戦国時代のオカネ</font>&nbsp;<br />
<br />
大名達の財源は「年貢米」です。大名は領地から取れるお米が財源でした。そのため米が沢山取れるいい領地は大人気。他国を侵略して、たくさん米がとれる領地をゲットするというのも重要なことだったのです。他には特産物で利益を得るというのもありました。<br />
<br />
またこの時代は日本史上空前のゴールドラッシュ。金山・銀山開発もすごいものでした。武田信玄の領地は、米の生産量が少なかったため鉱山開発がすごい進んでました。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">女難の時代・・・戦国時代の女性はどうなの？</font>&nbsp;<br />
<br />
はっきりいってこの時代、女性として生まれたら最悪でした。身分の高い女性は「政略」の駒に使われ、自分の意志はまるでなし。ちなみに「美」とは「顔を白く塗れば塗るほど美しい」というもので、白粉を重ねまくっていました。結婚した時は「お歯黒」を塗っていました。<br />
<br />
ルイス･フロイスは「ヨーロッパでは歯を白くするために努力しているのに、日本女性は黒く染めていておかしい。肌も真っ白で恐ろしい」と言ってました。身分の低い女性も、男性の庇護のもと暮らしてました。それでも35種類の職業があって、酒造・餅売・機織などほとんどが販売業でした。<br />
<br />
楽しみは遊山。神社に行ったりして息抜きをしていたのです。ちなみに合戦が始まる！！となると、もう最悪。定められた本陣周辺の農民達は、まっさきに自分の女房と娘を隠しました。隠し場所が見つかってしまうと、女性達は本陣まで連れて来られて無理やり夜伽の相手をさせられてしまうのです。<br />
<br />
この時、美人であれば武将クラスがお相手。どうでもいいような女性は、雑兵相手となりその辺の原っぱで無理やりレイプされてしまうのです。舌を噛んで自殺する女性や、罵ったために「オレ様の誇りが傷ついたぞ！」と言って斬られる女性も多数。女性に「人権」など一切なし。女性にとって最悪となる女難の時代だったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff6600">24時間重労働　小姓の役目<br />
<br />
</font>戦国時代の武将は身の回りのことを女性にやらせずに「小姓」を置き、すべてやらせました。小姓は24時間重労働。食事・掃除・お出かけのお供すべてをやり、もちろん戦いにもついていき、セックスの相手をしたのであります。なので小姓には機転がきく主人好みの美少年が選ばれ、美少年であればあるほど武将にとってスティタスになりました。<br />
<br />
主人に合わせて肛門を広げておくとか、おならの原因になるイモ類は食べないとか、すごい大変でした。小姓の期間は14歳～18歳くらいまでで、常にメンバーチェンジが行われていました。小姓の間一流の武将になるべくノウハウを主人から盗み、また忠誠心も養われていくので小姓上がりは有力な家臣となっていくのでした。<br />
<br />
ちなみに、信長の一番のお気に入りの小姓は「森蘭丸」また若い頃、前田利家も信長とは男色関係。エピソードとして、信長が安土城完成パーティを開いた時に末席にいた利家に対して「そなたはワシの秘蔵っ子であったな」と声をかけまわりの武将連中を羨ましがらせた。他には蒲生氏郷（がもううじさと）も信長の小姓でした。<br />
<br />
武田信玄の小姓として有名なのが高坂昌信。昌信はすごい美少年で16歳の時に信玄にヒトメボレされたのでした。豊臣秀吉と石田三成・家康と井伊直政もそっち関係だったらしい。井伊直政は、15歳の時鷹狩をやってた家康にヒトメボレされたのでした。&nbsp;<br />
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　　<strong><font style="BACKGROUND-COLOR: #33cccc"><a target="_blank" href="http://rekisirekisi10.blog.shinobi.jp/">鎌倉時代へ＜＜</a></font></strong>　<a target="_blank" href="http://rekisirekisi12.blog.shinobi.jp/"><strong><font style="BACKGROUND-COLOR: #33cccc">＞＞戦国時代へ</font></strong><br />
</a>&nbsp;</p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80%E3%83%BB%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 05:55:07 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>応仁の乱と下克上</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">バカ将軍義政　さらに争いの種を蒔く</font>&nbsp;<br />
<br />
この頃、将軍が正月の挨拶に管領の屋敷を訪問するのが慣例となっていました。お家騒動の後に、畠山家を継いだ政長は管領となり、将軍義政が挨拶にやってくるためにご馳走を用意したりと大忙しでした。<br />
<br />
当日、準備万端で待っている畠山政長の屋敷に、いつまでたっても将軍義政がやってこないのです。「あれ？おっかしいなぁ」と、政長は不安に思っていたところに、将軍の使者がやってきました。「本日、将軍は都合が悪く来れないそうです」と伝えにやってきたのです。「何だよぉ。将軍が管領の家に挨拶に来ないなんて前例がないぜ？面目丸つぶれじゃんか！」と怒っているところに、さらに驚くべきニュースが！なんと政長と家督争いをしていた義就の家に将軍義政は挨拶をしに行っていたのです。<br />
<br />
さらにさらに！ご丁寧に「畠山氏を継ぐのは政長にしちゃったけど、やっぱり義就にする！管領も義就にしちゃう」とまで言っちゃったのです。もー政長にとっては「何考えとんじゃー！」状態でした。早速政長は勝元に相談。<br />
<br />
政長は「誰が譲るか！」と、屋敷に留まることを決心したのです。すると義就派の山名宗全が飛び出してきました。「政長がいつまでも屋敷に留まるのは、バックに勝元がついてるからじゃねーの？勝元に政長を早く追い出せって命令したらどうよ？」と将軍義政に忠告したのです。<br />
<br />
が、ここで義政考えた（バカなりに）「宗全の言うとおりにしちゃったら、今度こそ山名VS細川で戦いが始まっちゃうよなぁ。もうお互い爆発寸前だもんなぁ」ということで、とりあえず「宗全・勝元とも、政長と義就のことはほっとけ！畠山のことは本人達におまかせしろ」と言いました。政長はコレを聞き「じゃあ、オレは自分の力で管領職を守りぬいたる！」と激怒。戦うことを決心したのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1467年1月18日　政長　宣戦布告！</font>&nbsp;<br />
<br />
とうとう政長が勝負に出ました。政長は自らは畠山邸を焼き、兵を出したのです。対する義就も、いつかこうなるだろうと予測はしていたので、早速兵を集めました。宗全も勝元も将軍義政から「手出しするなよ！」といわれていたんですが、義就が押されているというのを聞いた宗全は「なにぃー！」と、将軍義政の命令を無視して兵を出したのです。この時勝元は「今ここで動くのは不利」と読み、とりあえず今回は宗全＆義就が勝利したのです。勝元から援軍の来ない政長は逃げていきました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1467年3月　勝元動く<br />
<br />
</font>3月になると勝元の周りが慌しくなってきました。日野富子は「何か起こるんじゃないか」と義政に相談したんだけど、義政はノンキに「ダイジョブだろ？」くらいの感覚でした。が、4月になると京都へ大量の軍が入ってきたのです。市民はビックリ！<br />
<br />
さらに勝元チームである赤松政則が、かつて自分の領地であり、現在は山名氏の領地である播磨を攻撃！播磨の山名氏はビックリして負けてしまいました。すると今度は山名チームの大内政弘が「こしゃくなぁ！」と、京都へ軍を向かわせたのです。<br />
<br />
こうして京都は続々と兵が集まりだしたのです。宗全チームには斯波義廉・畠山義就・土岐成頼・六角高頼ら20カ国。兵の人数は9万人。勝元チームには斯波義敏・畠山政長・赤松政則・京極持清ら24カ国。兵は16万人。さらに将軍義政の弟義視も宗全チームに加わりました。<br />
<br />
表にするとこんな感じ<br />
<br />
　　　　　　　　&nbsp;東軍　　 西軍 <br />
総大将　 細川勝元　 山名宗全 <br />
将軍家　 足利義視　 足赤義尚&amp;日野富子 <br />
畠山家　 畠山政長　 畠山義就 <br />
斯波家　 斯波義敏　 斯波義廉&nbsp;<br />
<br />
宗全は西軍・勝元は東軍として京都を舞台に戦乱が始まろうとしていたのです。ちなみに、西軍の宗全が陣を構えた場所が、今の京都の西陣です。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1467年5月26日　応仁の乱始まる！</font>&nbsp;<br />
<br />
将軍義政は京都に兵が続々と集まるという異常な状況にドッキドキでした。「先に戦を仕掛けた方を将軍の敵とするからな！」と掛け声を上げましたが、もはや宗全も勝元も将軍のことなど眼中にありませんでした。将軍や富子のいる御所は一応勝元の手に押さえられていました。<br />
<br />
宗全は将軍・富子・息子の義尚を自分側に取り込もうと、室町御所乗っ取り計画をたて始めたのです。その役として一色義直が選ばれました。が、これは勝元に見破られ逆に一色義直は攻められてしまいました。一色義直は屋敷を焼かれ、逃げちゃいました。ここに戦国時代突入のきっかけとなった応仁の乱が幕を開けたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">勝元　天皇をゲット！官軍になる</font>&nbsp;<br />
<br />
勝元は後土御門天皇と後花園上皇を室町御所に抱え込みました。将軍と天皇を御所に置いたことにより、勝元は「官軍」となり宗全は「朝敵」となったのです。宗全は先を越されたことに怒り、なんとか将軍＆天皇をゲットしようとしました。<br />
<br />
京都ではいたるところで戦乱が繰り広げられ、市内は焼き払われまくりとなったのです。さらに地方から一旗挙げようと続々と軍勢がやってきました。これらの地方武士は田舎っぷりを発揮し、強奪などをしまくったり、意味もなく火事を起こしたりと、京都はますます大変なことになっていったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子　義政に嫌気がさす</font>&nbsp;<br />
<br />
戦はいつ終わるのかわからない状況になってきていました。この頃の京都は焼け野原となり、大事な文化財などもことごとく燃えまくってしまいました。将軍義政はそんな状況がイヤになっちゃって、お酒ばっかり飲むように。世の中に起こっている事を忘れようと、酒・女にますます溺れるようになってきたのです。<br />
<br />
そんな義政にほとほと呆れた富子「世の中は大変なことになっているっていうのに、将軍のくせに何やってるのかしら！もともとはアンタが適当な政治をやってたからこんなことになったんじゃないの！」と、2人の間は冷えまくってきたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">戦いはダラダラと続く<br />
<br />
</font>この戦いはおよそ11年続きました。いつまでたっても勝敗がつかず、田舎から出てきた守護達もだんだん自分の家が心配になってきました。というのも、戦乱は都から地方へも飛び火し、だらしない政治っぷりに農民らが立ち上がり一揆が起こるようになってきたのです。<br />
<br />
さらに守護達の家臣らが「主君がいない間に・・・」と、家を乗っ取ろうとしたりと、国元も騒がしくなってきたりしました。そのため、守護達は徐所に国へ帰りはじめたのです。また宗全＆勝元もはっきりいって戦いをやめたくなってきていました。だけど、周りの人たちが納得いかーん！と休戦を反対していたため、この戦いはいつまでもダラダラと続いていくこととなったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1471年　下克上やっちゃいました　by朝倉孝景（あさくらたかかげ）</font>&nbsp;<br />
<br />
朝倉孝影は、斯波家の義敏と義廉の間でケンカがおっぱじまると、義廉の味方をしました。が、応仁の乱が始まると義廉の味方をし、京都で奮闘します。ですが越前において、義敏の兵に背後を襲われてしまったのです。この時細川勝元が「もし東軍の味方をするなら、お前を越前守護にしてやるぞ」とささやかれました。<br />
<br />
孝景はビックリ！そして迷った末、寝返りを決意し、細川勝元に協力。朝倉孝景は越前守護の座をゲットしたのです。主家である斯波家に代わって、朝倉家が越前を治めることに。が、こっからは苦労の連続でした。かつての同僚らは、「なんでオマエが社長（大名）なんだよ！」と怒るし、家臣団はバラバラに。<br />
<br />
孝景は本拠地を一乗谷に移し、再編成をすることにしたのです。戦国大名第一号は「北条早雲」が知られていますが、原型は朝倉孝景とも言われています。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">京都は修羅場に！乱暴狼藉「あしがる」の登場</font>&nbsp;<br />
<br />
この乱により大軍が日本全国から京都に集結！市内では毎日のように戦いが繰り広げられ、物資の動きもストップしたりしていました。そのため食料難が続き、掠奪が始まったのです。悪党が横行し、それを取り締まるべき幕府側の兵なんかも酒屋などを襲撃する始末。<br />
<br />
中でも一番騒ぎを大きくしたのが「あしがる」でした。足軽は下級兵士のことで、ほとんどが各地の守護大名が戦力補充のために臨時で雇った人でした。もとは浮浪者や没落農民が多く、常識や道徳に欠けている人がほとんど。彼ら足軽は掠奪や放火をなんとも思っておらず、一番の特徴は「逃げることを恥と思わない」ということ。<br />
<br />
平安時代後期から出てきた「武士」とは、逃げるなど言語道断！めちゃくちゃ「恥」なことだったんだけど、彼ら足軽はそんなの知るか！命あってのモノダネって感覚でした。そして彼ら「足軽」は戦国時代に突入すると、無視できない新戦力となっていくのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1473年3月18日　両軍大将続けて死ぬ！<br />
<br />
</font>そうこうしているうちに、なんと西軍総大将の山名宗全が70才の高齢だったため死んでしまいました。こうなれば細川勝元の時代じゃー！と思いきや、なんと2ヵ月後の5月11日に、44歳の若さで死んでしまったのです。世の中は蒼然としました。両軍大将が立て続けに死んでしまったのです。<br />
<br />
宗全の後は山名政豊が、勝元の後は政元が後を継ぎました。この2人は早速講和しようとしましたが、畠山義就＆政長が異議申し立てをして、講和は破棄されたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1473年12月　9代将軍　足利義尚&nbsp;<br />
</font><br />
将軍義政は何度か「戦いヤメロー」と騒いでたんだけど、誰も義政の言うことなど聞きませんでした。こんな状態に疲れてしまった義政。「もうワシはイヤじゃ。風流三昧の生活をしたいんじゃぁー」と、9歳の義尚を新将軍にすることとにしたのです。ちなみに、可哀相な弟の義視は「兄の言葉を信じたオレが馬鹿だった・・・」と悲しみながら美濃へ下っていったのです。こうして新将軍義尚が誕生したのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子　政治の楽しさを知る</font>&nbsp;<br />
<br />
新将軍の義尚はまだ9歳。将軍になったといっても、9歳なので何もできませんでした。後見人の宗全も死んだ今、代わりに政治を行えるのは富子と富子の兄・勝光でした。富子と勝光は新将軍の後見人となり、政治を始めました。富子は自分の一言が、世の中に多大な影響を及ぼすようになると、政治がおもしろくておもしろくて仕方がなくなってきました。「これが世の中の政（まつりごと）か！」と、急にイキイキしだしたのです。<br />
<br />
おもしろくないのは前将軍の義政「なんだよ！富子のヤツ！義尚に代わって楽しそうにやっちゃってサ！」とひがむように。この頃義政は隠居して「小川御所」に住んでいました。ちなみに、当時上流家庭では、絶対に離婚＆別居はしちゃだめ！といわれていたので、将軍夫婦が別居するなんて前代未聞の事件。富子が楽しそうにしているのが気に入らない義政は、突然「ワシ、これから大御所として色々発言するから！尊敬する義満のマネするから！」と言い出したのです。<br />
<br />
富子は「いまさらなんです？あなたが出てくると余計ごちゃごちゃするんですからね！あなたはもう隠居の身でございましょう？黙っててくださいな！」と一喝したのです。義政は政治がイヤで、遊びまくりたくって隠居したというのに、これがきっかけで富子をますます恨むようになるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1476年　富子　権力を得まくる&nbsp;<br />
<br />
</font>幼い将軍を抱え込み、富子と勝光は権力をゲットしまくりました。義政はそんな噂を聞くたび、おもしろくなくますます酒びたりの生活を送るように。そんな中、兄の勝光が48歳で死んでしまったのです。義政大喜び！富子は頼りである兄が死んでしまい大ショック！<br />
<br />
「こうなったら、私1人で義尚を助けていかなくては！！」と心にちかったのです。富子は考えていたことがありました。それは「幕府は戦乱続きでお金がなさすぎる」ということ。世の中は戦乱が続いており、お金がないために堕落していった武将らを数多く見てきました。「お金さえあれば、このようなことにはならぬ。世の中、財力があるものが勝つのだ」と思うようになってきていたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子　守銭奴となる&nbsp;<br />
</font><br />
富子は手始めに、自分が持っているお金を戦費に困っている武将に貸し付けました。無力で馬鹿なダンナがいたため、そして幼い息子義尚に少しでもよりよい幕府を授けるため。富子はお金儲けを始めたのです。みんなお金がなかったので、富子にバンバン借りにやってきました。<br />
<br />
さらには敵方であった武将にまで富子はお金を貸したのです。そのため「御台所とあろう者が浅ましい」と陰口を叩かれまくりました。富子は「何とでもお言い！私は幼い義尚と幕府のためにやってるのよ！」と財テクしまくったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1477年11月　応仁の乱　やっと終わる</font>&nbsp;<br />
<br />
こんな中、ずっと続いていた応仁の乱がやっと幕を引きました。山名・細川も戦いをやめたかったし、まわりもほとほと疲れてきたのです。畠山義就も疲れて河内へ帰り、管領には政長がなるということで落ち着きました。1467年から始まった長い戦いは終わったのです。<br />
<br />
勝敗はどちらにもなく、ダラダラとした長い戦いでした。この戦いにより京都の町は焼けまくりり、死体がそんへんにゴロゴロし、将軍夫婦の仲に亀裂は入り、残ったものは何一つありませんでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子　財テクしまくり</font>&nbsp;<br />
<br />
一応世の中は平和になった・・・・・・ということになっていましたが、地方では長い間留守にしていた主君に代わって、家臣らが暴動を起こしたり、一揆が始まっていたりと、都の戦乱の飛び火が続いていました。<br />
<br />
富子は「いつまたあのような目にあうかわからない！私はまだまだ儲けるわよ！」と、今度は「米」をターゲットに。富子は米の収穫期に、米を買占めて米価が上がったところで売るということをやってのけました。さらに今まで廃止となっていた「関所」を再開したのです。人々は富子を非難しまくりました。ですが、非難している人たちもお金が無くって富子に借金しにくるのです。<br />
<br />
「ふん。負け犬達め。勝手に吠えていればいいわ。私は貯めたお金を自分の遊びに使ってるんじゃないのよ！幕府のため・義尚のために使ってるというのに。女が政治に口を出し、巨万の富を手にするのがそんなにダメなわけ？アタシはね、真剣なのよ！遊びじゃないのよ！」と開き直っていたのです。富子は多くの人を敵に回していたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子の悩み・・・「義尚、あんたお父さんに似ちゃったのね・・・」&nbsp;<br />
</font><br />
一生懸命頑張っている富子をヨソに、肝心の将軍義尚は富子の思ったように育ってくれませんでした。富子は義尚のお嫁さんには自分と同じように「日野家」の娘を考えていました。富子が選んだのは兄の勝元の娘。1481年に義尚とその娘は結婚したんですが、すぐに事件が起きたのです。<br />
<br />
実は義尚には好きな女性がいました。それがなんと父である義政の愛人だったのです。そして父と息子が同じ女を取り合い、大喧嘩してしまいました。もう富子は唖然。「なんたること！親子で同じ女を取り合いするなど汚らわしい！」と超激怒！すると義尚は「うるせぇんだヨ！ガタガタいうならオレ、将軍辞めちゃうぞ！」と言い出しました。<br />
<br />
もー富子は大ショック！「今まであんたのために頑張ってきたのに！人に何を言われようと、あんたのためだけを思ってやってきたのに！」と怒ったんだけど、義尚は反抗期まっさかり（？）だったのです。<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900"><br />
<br />
1482年　義政　銀閣寺を建てる</font>&nbsp;<br />
<br />
このような中、突然トラブルメーカー義政がまたも「自分勝手計画」を発表しました。義政は昔っから祖父である義満にめちゃくちゃ憧れていました。そこで「義満の造った金閣寺と同じように、ワシも立派な山荘を建てる！金閣に対抗して銀閣だ！」と言い出したのです。<br />
<br />
義政の脳裏は「風流ありまくりの山荘にするゾ！えっとぉ、滝が流れるようにしてぇー、緑を美しくしてぇー・・・」など想像しまくり。これを聞いた富子は「まったくあの男は・・・・。どこにそんなお金があるのかしら」と呆れまくり。義政もさすがに富子にお金を借りるわけにもいかず、本当はおじーちゃん同様キンピカにしたかったんだけど、無理だったのであの「ワビ・サビ」の銀閣寺が出来たのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1488年　加賀一向一揆</font>&nbsp;<br />
<br />
この頃、京都本願寺の蓮如は、浄土真宗をさかんに広めていました。親鸞が広めた仏教の教えで、念仏を唱えれば極楽にいけるというもの。が、蓮如は延暦寺の迫害にあい、越前（福井県）に移りました。浄土真宗は、農民や地元武士らに広まり、信者達は団結を固めていくように。<br />
<br />
その頃、加賀（石川県）の守護、富樫家では政親（まさちか）と幸千代の兄弟が争っていました。政親は、浄土真宗を味方につければ幸千代をやっつけられるかも！ということで浄土真宗の信者らと手を組んだのです。それを知った幸千代は、信者らをやっつけることに。が、「死んだら極楽へいける！」と言いながら命知らずで向かってくるため幸千代はとうとう負けちゃいました。そして信者達は、こんなお偉いさんたちに土地をまかせてらんねー！団結すれば俺達で土地の面倒も見れるんじゃないのか！？という動きに変わっていくのです。<br />
<br />
この動きに焦った富樫政親は、信者らを滅ぼそうとしました。が、怒った信者らは命知らずの戦いをして、とうとう加賀の国は一向一揆衆にとられてしまい、政親は自刃したのです。「死んでも極楽！」とマインドコントロールされている信者らは、怖いものナシだったのです。そして１４８８年に加賀国の一向一揆は大成功。浄土真宗が１００年間ほど支配する国になったのです。<br />
<br />
一向宗が守護大名を破って一つの国を作っちゃったもんだから他の国の一向宗も独立の動きが高まり、戦国時代になってからも朝倉・上杉・徳川・島津なんかもこの動きを抑えるためにすごく苦労することになります。その後一向一揆は広がり、１６００年代の信長の時代まで続くこととなるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子　後継ぎを決める</font>&nbsp;<br />
<br />
ここにきて富子は非常に悩んでいることがありました。息子である義尚にいつまでたっても子供が生まれないのです。「ヘンなとこばっか父親に似て、酒飲みだからかもしれない。このまま子供が生まれなかったらやばいわ」と考えていました。<br />
<br />
そしてとうとう「後継ぎ」として、大嫌いだった義視の子供である義植をプッシュしだしたのです。というのも、義視のとこに嫁いだのは富子の妹でした。義視は大嫌いだけど、義植は妹の子なので｢日野家の血」を継いでいる。そう考えたのです。<br />
<br />
これを知ったご隠居義政は激怒！というのも、義政は義政なりに「義尚にはいつまでたっても子供が生まれないなぁ。後継ぎにはオレの弟である政知の次男を将軍にさせよう」と考えていたからです。が、この頃富子に逆らえる人はいませんでした。<br />
<br />
富子のプッシュした義植が後継ぎになることとなったのです。ちなみに義視はこの話しを持ちかけられると「え？？？っつーか、ほんとに？オレもう騙されるのイヤだよ」と半信半疑でした。けど、富子が本気とわかるとおおはしゃぎだったそうです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">六角高頼　反乱を起こす！</font>&nbsp;<br />
<br />
この頃応仁の乱のおかげで世の中はめちゃくちゃになっていました。いつまでも決着のつかない戦いに、守護たちが京都でうろうろしている間に、国元で留守を預っていた家臣たちが主君の所領をゲットしちゃったり、我が物顔で政治を行っていたりしていたのです。<br />
<br />
さらにその家臣達はどさくさに紛れて、周囲にある公家や寺社の荘園なんかも奪ったりしていました。何とかしてくれぇーと幕府に度々訴えがあったのです。将軍義尚は「勝手に奪った所領や荘園は、きちんと戻せ」と命令しました。「将軍の命令とあっちゃ返すしかないか・・・」と、みんなしぶしぶ返したりしていたんだけど、そんな中で六角高頼だけは命令に従おうとしなかったのです。将軍義尚は激怒し「オレが行って六角を攻めるぞ！」と言い出しました。<br />
<br />
みんなビックリ！！！二代将軍足利義詮以来、将軍自らが兵を進めるということがなかったからです。「さすがは足利尊氏の血を引いているおかたじゃ！」「さすが源氏の棟梁じゃー」と、皆感心しました。この時義尚２３歳でした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1489年３月　義尚　酒飲みすぎで死去</font>&nbsp;<br />
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勇んで討伐に行った義尚でしたが、実際は「慌てることはないだろ」とノンキでした。六角氏の所領の近くに陣を張ったんだけど、六角氏は全然攻めてくる気配もないし、「こんなもんか」と義尚はのんびりしちゃいはじめました。さらに近くから美女を集めて、酒宴を開いたりするように。その中からお気に入りの女性を選び、<br />
<br />
毎晩毎晩遊びまくりのエロ三昧。細川政元が心配して「六角氏はお家断絶の危機なので、必死ですよ？絶対何か企んでますよ！」と進言しても、義尚は「うるさいなぁ」くらいにしか思わないのでした。そうこうしているうちに、なんだか義尚の顔色がどす黒くなってきました。<br />
<br />
毎晩深酒をし、遊んでばかりの生活が祟り、体調が悪化していったのです。これは普通じゃないと、まわりの人々は義尚を一度戦場から帰らせることにしました。義尚の病気は日に日に悪くなり、とうとう25歳という若さで死んでしまったのです。その後六角氏討伐はなんの成果もあげないままとなってしまいました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1490年　10代将軍　足利義植</font>&nbsp;<br />
<br />
義尚が死んだことにより、25歳の新将軍義植が誕生しました。ここまでは富子の思い通りだったんですが、なんと父親の義視（義政の弟で、富子にめちゃくちゃにやられちゃった人）が、口を出しまくるようになってきたのです。義視からしてみれば<br />
<br />
「オレは寺で静かに一生を過ごす予定だった。それを兄貴（義政）が将軍にさせてやるって言うから表舞台に出てきたっていうのに、自分の子供が生まれちゃったらお払い箱。オレの人生何なんだよ？」状態でした。そんな中、義植が将軍になったもんだから「うー！長かったぁ。これからは父親のわしが助言しまくるぞ！」と口を出しまくったのです。<br />
<br />
これには富子もカチンときてました。「はぁ、義視が専横しまくってるわ。もう日野の血にこだわるのはヤメにしましょ。」ということで、以前から義植が将軍になるのをイヤがっていた細川政元と手を組み「義植を辞めさせましょ」と計画しだしたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1494年　11代将軍　義澄　細川政元クーデターを起こす</font>&nbsp;<br />
<br />
そんな中、義視が突然死んでしまいました。富子たちにとっては超ラッキー。さらに義植が義尚が果たせなかった六角家をやっつけにいこうと言い出したのです。１４９２年　義植は京都を出発しました。義植が京都にいない今がチャンスと、富子&amp;政元は義植を廃すべく動きはじめたのです。<br />
<br />
富子と政元は義政がずっと次の将軍にしたいー！と言っていた義澄を連れてきました。義澄は義政の弟である政知の息子で、お寺に入っていました。そんな義澄を還俗させ、大々的に新将軍を発表しちゃったのです。もー義植はビックリ！ですが、逆らう力はなく都を落ちていったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">将軍義澄　細川政元を頼りまくる</font>&nbsp;<br />
<br />
新将軍義澄はまだ１５歳。今までお寺に入っていたので、右も左もわかんない状態でした。そのため自分を引っ張ってきてくれた細川政元を頼りまくり、政元は政治を意のままに行ったのです。富子はそんな様子を見て腹立だしい思いに。<br />
<br />
「まったく！あれじゃあ政元の傀儡じゃないの！一応将軍なんだから少しは発言しなさいよね！」と思うようになってきたのでした。そのため富子は何かと口を出すように。が、義澄はそんな富子を「うるせーな！」と思うのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子夢が終わる　</font>&nbsp;<br />
<br />
２人の仲はだんだん険悪になってきました。今や義澄は細川家ばかりを頼り、何でもかんでも政元の言うとおりに動くというお飾り将軍となっていたのです。富子は「あんた将軍なんだから！もうちょっとしっかりしないさいよ！」とガーガー文句を言いました。<br />
<br />
義澄はそんな富子がうざったくて仕方ありませんでした。とうとう義澄は「富子うるさすぎ！京都から出て行け！」と将軍命令を出しちゃったのです。もー富子ビックリ！ですが将軍の命令に逆らうわけにはいかず、京都を出て行ったのです。<br />
<br />
それから富子は１４９６年の57才まで１人寂しく生きました。義澄は富子の葬儀にも出なかったそうです。富子の残した莫大な遺産は、皮肉にも大嫌いだった義澄が受け継いだのです。そして傀儡将軍となった義澄。幕府の権威は地につき、地方ではだらしない幕府の代わりに守護大名が力をつけ、守護大名は戦国大名となり、時代は戦国へと突き進んでいくこととなるのです。</p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%81%A8%E4%B8%8B%E5%85%8B%E4%B8%8A</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 05:15:33 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>室町全盛と日野富子</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1367年　3代将軍足利義満&nbsp;<br />
<br />
</font>11歳の義満が3代将軍になり、管領（かんれい・将軍の補佐役で鎌倉時代の執権にあたる役職）には、細川頼之。まず義満は、細川頼之の助言により、「半済」という制度を実行。この頃、各地で武士が自分の土地を経営しつつ、近くの荘園に進出して武力により荘園の支配権を無理やり奪っていたので、荘園領主はたびたび幕府に「どうにかしてよ！」とやってきていた。で、荘園からの年貢の半分を軍事費として武士が取るという制度を作ったのです。<br />
<br />
これで領主は荘園が守れるし、武士にも半分はいる。というわけで、幕府は両方から信頼されました。やがて義満は大きくなっていき、自分で幕府の政治を行うようになるのです。ちなみに、テレビアニメ一休さんに出てくる「将軍様」は義満のことだよ。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1378年　花の御所＆義満の政治</font>&nbsp;<br />
<br />
義満は、京都の室町に「花の御所」と呼ばれるお屋敷を建てました。このお屋敷が室町にあったので、「室町幕府」と呼ばれるようになったのです。花の御所は、全国の守護に工事を分担させて、各地から色とりどりの花を植えさせたのでこう呼ばれたのです。<br />
<br />
立派なお屋敷ができたんで、今度は将軍の力をつけよう！と義満は、有力な武士を地方からスカウト。近習（きんじゅう）や奉公衆とうい将軍の軍隊を作りました。さらに有力な３つの家（斯波・細川・畠山）の3家の１つに権力が集中しないように交代で管領をやらせることに。<br />
<br />
これを三管領（さんかんれい）といいます。侍所長官も、山名・一色・赤松・京極の４家を交代でやらせることに。これを四職（ししき）といいます。また、家柄に序列をもうけたりして将軍家の権威を高めようとしました。さらに義満は、守護受けを認めました。<br />
<br />
守護受けというのは、荘園領主が実力のある守護に荘園の管理をまかせて年貢の取立てをしてあげるってもの。これによって、守護の勢力は増し領地の支配がしやすくなったのです。鎌倉時代は、守護と地頭の間にどっちが偉いとかはなかったんだけど、室町時代になって、守護が地頭・荘園・武士を支配するようになっていくことに。でも、守護の力が強くなりすぎちゃったら幕府は武力によって攻撃しました。<br />
<br />
力が強すぎて滅ぼされてしまった代表的なのは1390年土岐康行・美濃（岐阜）1391年山名氏清（山陰地方・一族で11カ国を支配してた）この山名氏清はのちに出てくる山名宗全のご先祖様です。このように、幕府は出る杭はどんどん打っていき、強力になり次第に安定していったのです。対する南朝は、各地で南朝のために戦闘してた人が立て続けに死んでいって、もはや幕府に対抗する力はなくなっていました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1383年　義満　後円融上皇の愛妾に手を出す！？</font>&nbsp;<br />
<br />
義満は１８人の妻を持ち、２１人の子供をもうけた精力家でありました。そしてとうとう上皇の愛妾に手を出してしまったのです。天皇の妻・妾に手を出すことは許されない罪でした。なぜかというと、もし子供ができてしまい、その子が皇位を継いだら天皇家は天皇家でなくなってしまうから。<br />
<br />
大和朝廷ができて以来、天皇の妻は皇室の奥深くに住まわされることになっていたのです。平安時代の頃に「後宮」ができて、他の男は入れないような仕組みになっていました。なので天皇の妻がスキャンダルを起こすことはまずなかったのです。でも皇位を降りた上皇の妻は話は別。後宮・内裏にとどまる必要がなくなり自由気ままに出歩けるようになるのです。で、若い恋人をゲットすることも可能なんですが、天皇に万が一のことがあったら上皇の子が皇位を継ぐ可能性があるので、上皇の愛妾たちは自分の身を守るのに必死でした。<br />
<br />
周りに男を寄せ付けないようにしていたのです。だって盗人が入っただけでも貞操が疑われるようなことになってしまうからなのです。このような状況の中、義満やっちゃいました・・・。後円融上皇の愛妾の一人である女性が突然出家してしまったのです。義満との仲を疑われて上皇に暴力を振るわれ耐えられなくなったからなのです。<br />
<br />
義満は謝んなきゃ！とただちに使者を送りました。上皇は使者の姿を見て「切腹してやるぅー！」と言い出しました。上皇の母がなんとか自害を押しとどめ使者に会わせ、義満が謝ったことで一件落着しました。上皇は自分の妾に手を出されても自殺してやるう！と騒ぐくらいしか将軍家に対して抗議のすべを持っていなかったのです。それほど天皇家の力は衰えていたのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1392年　南北朝合一</font>&nbsp;<br />
<br />
幕府は、対抗する力のない南朝とそろそろ合一するか！ってことで有力守護の大内義弘（おおうちよしひろ・山名氏清を制圧した人）の仲介で南北朝合一をすることに。幕府から合一したいと言われた後亀山天皇（後村上の息子）は、もう戦うの疲れたー・・・と、合意しました。<br />
<br />
義満が示した講和の条件は</p>
<p>・三種の神器（後亀山が持ってる）を北朝の後小松天皇に渡して位を譲る</p>
<p>・今後、皇位は南朝と北朝で交代でやる<br />
<br />
後亀山天皇は、その条件を飲んで京都へ入りました。南北朝合一により、室町幕府の力はゆるぎないものに！そして北朝に三種の神器がうつった後、幕府はこの条件を無視した・・・。<br />
<br />
※ちなみに、「太平記」は、新田義貞が鎌倉幕府を倒す1333年から、南北朝合一の1392年までの70年間の戦いの記録です。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１３９７年　義満　ピカピカ金閣寺を建てる&nbsp;<br />
</font><br />
義満は、１３９４年将軍を辞めて太政大臣に。太政大臣とは、律令制の最高の位。太政大臣になることで、公家を支配下におきました。次の４代将軍は、将軍は義満の子の義持（よしもち）で、１３９５年には太政大臣を辞めて、出家。とはいっても、政治から引退したわけじゃないよ。<br />
<br />
そして義満は、京都北山に自分の別荘（北山殿）を建てると言い出したのです。これが建築費全然足りず、義満は、「全国の守護にお金出させろーー！」と命令。この時、守護大名の大内義弘は、「そんな道楽に金出せるか！」と拒否。これがモトで、瀬戸内海に大きな勢力を持っていた大内氏は滅ぼされちゃう。（1399年応永の乱）<br />
<br />
ついに１３９７年北山殿完成。金箔を塗りたくった贅沢なモノで、のち金閣寺と呼ばれます。ちなみに、今の金閣寺は１９５０年火事になったので、復元したもの。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">義満　文化に興味津々　世阿弥チョーカワイイ！</font>&nbsp;<br />
<br />
さらに義満は、文化にも興味を持ち、世阿弥元清（ぜあみもときよ）・観阿弥（かんあみ）を可愛がり、能楽を保護しました。能楽ってのは、平安時代から行われていた猿楽と田楽とが結びついて生まれた演劇。役者が能面をつけて、曲にあわせて舞をするってもの。<br />
<br />
ちなみに世阿弥を可愛がるってのは、ふつーに可愛がるってことじゃなくって男色のお相手ということ。1374年に義満が初めて世阿弥の舞台を見たときに、世阿弥のあまりの可愛さにヒトメボレしちゃったのです。それから世阿弥は義満の｢超お気に入り」として後援されまくりでした。<br />
<br />
さらに、オレっちは一流の文化を育てるぞ！！と、禅宗（臨済宗）の五山を定めて保護。（天竜寺などなど）保護を受けた五山はめちゃくちゃ栄えました。五山の僧は、幕府を助けて外交に大活躍するように。また中国の学問を紹介して、漢詩や漢文なんかも盛んに作った。<br />
<br />
北山を中心に色々な文化が作られ、公家文化と武家文化が混ざり合った北山文化が花開きました。この頃の流れは・・・ 鎌倉幕府崩壊後、建武の新政・南北朝と相次ぐ戦乱の中で御家人制度は消滅。御家人は、地方勢力としてさらに強大になったり、混乱に巻き込まれ消滅したりしました。<br />
<br />
そんな中で勢力を伸ばしまくったのが守護。足利将軍に近い守護大名は、将軍の威光もあって複数の国の守護職を兼ねていて、かなり強大になっていくのです。（コレが後の戦国大名）南北朝時代は、「バサラ大名」と呼ばれる守護大名が何人も登場。<br />
<br />
古いしきたりなんかにとらわれず、実力でのし上がって行く人たちのことで、派手で粗野な風情が好み。代表的なバサラは佐々木道誉・高師直・土岐頼遠など。その取り巻きなんかもバサラに染まって都を闊歩した。ちなみに尊氏は、自分はなれなかったけどバサラを楽しんでたらしい。<br />
<br />
でも、室町幕府が安定するようになると、武功派のバサラは風当たりが強くなるのです。品がない！とか言われちゃうように。で、少しずつ整理されちゃう（没落していく）完璧に室町幕府が整うのは義満のとき。もちろん幕府全盛期もこの頃。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１４０４年　勘合貿易始めちゃうゾー！日明貿易</font>&nbsp;<br />
<br />
鎌倉時代の終わり頃から、倭寇（わこう）が大陸沿岸を荒らしまくっていました。倭寇というのは海賊みたいなもんで、中国とかに行って海を荒らしまくり。これに困った明（中国）は、倭寇の取り締まり＆貿易を幕府に求めてきたのです。１４０１年に国交を開くため義満は使者を送って１４０４年から明との勘合貿易がスタート。<br />
<br />
正式な貿易船と倭寇の区別をするために「勘合」というのを作りました。「本字勘合」とかいてある符の半分にし、幕府と明が持つことに。で、正式な貿易船は「本字勘合」の符の半分を幕府からもらい、明が持ってるもう半分の符とぴったり合えばOK！というもの<br />
<br />
そして、貿易船は収益の一部を幕府に納め、幕府はかなり儲かった♪義満は明の皇帝に「日本国王」と認められ、天皇より偉くなっちゃいました。日明貿易はとっても栄えて、すごい発展をしていきました。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1408年　義満　死去</font>&nbsp;<br />
<br />
義満の権威は最高潮でした。1395年に行われた朝廷行事の時なんか自分の洋服の裾を関白に持ってついてくるように命じちゃったりして、自分は関白よりも偉いんだぞーというのをアピールしたのです。現に公家はこぞって義満のご機嫌取りをしまくり。<br />
<br />
明からは「日本国王」と認められ、天皇より偉くなっちゃったもんだから今度は「俺が天皇になっちゃおうかな・・・」ともくろむようになったのです。が、５０歳で突然死んでしまうのです。この死は天皇の近臣があまりにも権力を持ちすぎた義満に毒を盛った可能性が非常に高いそうです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">４代将軍　足利義持</font>&nbsp;<br />
<br />
次の将軍は足利義持。義持は、１３９４年に義満が太政大臣になったときに将軍職を譲られてるんだけどこの時一波乱ありました。というのも、義満は義持の弟の義嗣をめちゃくちゃ可愛がっていたから。次の将軍は兄を差し置いて弟の義嗣か？というくらいの贔屓ぶり。<br />
<br />
もちろん、義持はおもしろくない。が、義満が絶大な権力を持ってたのがイヤだった有力守護の斯波氏なんかは、義満と仲の悪い義持をプッシュした。そして、なんとか義持が将軍になれました。義満が大嫌いな義持は、明との国交をやめちゃって義満の方針をことごとく潰していったのです。<br />
<br />
せっかく栄えた室町も衰えていくように。義持を実際動かしていたのは斯波・細川・畠山の三管領。みんな義満の時は逆らえずにいたけど、義持になってからはやりたい放題。義持も父・義満が嫌いだったので、余計ヒートアップしていった。<br />
<br />
義嗣は、兄や家来が大好きな父・義満がせっかく築き上げたものをガンガン潰していくのに我慢ができず、とうとう元関東管領の上杉弾秀と手を組み反乱を起こしたのです！（上杉弾秀の乱）が、これは失敗。弾秀は鎌倉雪ノ下で自害。義嗣は殺害されました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１４２３年　５代将軍　足利義量（よしかず）&nbsp;<br />
</font><br />
義持は、さんざん義満の体制を壊しまくったけど、明との貿易をやめたせいでお金がなくなってきちゃう。さらに将軍就任の時から、守護大名になめられていたので、とうとう将軍を１７歳の息子義量に譲っちゃった。で、院政をスタートさせるんだけど、守護大名は全くといっていいほど言うことを聞かずにいました。<br />
<br />
義量はというと、１７才なので父の義持よりもっと家臣からみくびられ酒びたりの毎日。ストレスをお酒で紛らわす毎日でした。そしてとうとう１９歳にしてアル中で死んでしまいました。息子が早死にしちゃったので仕方なくまた将軍に返り咲いた義持。だけど、この頃は全く重臣らに相手にされない飾り物の将軍になっちゃってました。<br />
<br />
１４２８年　そんな哀しい義持も、とうとう死去。後継ぎをきめないまま４１歳であの世へ行ってしましたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１４２８年　正長の土一揆が起きる</font>&nbsp;<br />
<br />
この頃、農民はというと相次ぐ戦乱や自然災害のためかなり生活が苦しかった。１４２８年に義持が死んだ年には正長（せいちょう）の土一揆が起こったのです。徳政（借金帳消し）を求めて、農民が京都へ流れ込んできました。そして借金の証文を焼きまくったのです。この一揆をきっかけに各地で徳政を求める一揆がたびたび起きて、社会は不安定になっていくのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１４２９年　６代将軍　　足利義教　万人恐怖始まる</font>&nbsp;<br />
<br />
幕府では、義持が後継ぎを決めてないまま死んじゃったので、重臣会議が開かれていました。そこで選ばれたのが義持の弟の義教。出家してたトコを戻されました。この時、４人の将軍候補者がいて、それぞれ山名や細川といった強力なバックアップがつきました。で、いつまでも決められないので、こうなったら！とくじ引きで決められるという前代未聞のくじ引き将軍となった。が、この義教かなり問題あり。残虐な性格の持ち主でした・・・。<br />
<br />
例えば、ケンカしてる２人がいたら煮えたぎる釜の中に手を入れさせ、釜に入っている石を取らせる。やけどのひどい方が負けとか、庭師を木の枝が折れただけで殺したりとか料理がまずいってだけで、料理人を殺しちゃうとか。<br />
<br />
さらに、将軍の権威を取り戻すため自分の意志に反するヤツラを攻撃しまくり。延暦寺が焼けちゃうほどの事件まで起こすのです。自分がくじ引きで決まった将軍という引け目があったため、少しでも自分のことをナメたヤツがいると、容赦なく殺すのです。<br />
<br />
反面、気に入った者がいるとめちゃくちゃ可愛がりました。この頃、鎌倉では鎌倉公方の権力アップのため、関東も武将らの討伐をガンガンやっていました。義教は4代目鎌倉公方の足利持氏に対してはかなり激しいイジメをしまくったのです。おかげで、鎌倉と室町は仲がめちゃくちゃ悪くなり、ついに幕府VS鎌倉という戦いが起きちゃう。<br />
<br />
これが1439年　永享の乱。で、持氏は負けて自害してしまいます。義教は、ますます独裁者になっていったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">将軍義教　「気に入らんヤツは殺すぜ！」</font>　&nbsp;<br />
<br />
義教は、有力守護を次々と追放していきました。一色氏や土岐氏なんかも邪魔だっつーんで殺害されまくり、畠山氏も追放された。細川・赤松以外の有力守護はほとんど義教に攻撃されまくった。次の将軍のイジメの対象は赤松じゃないか？？と噂されたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">赤松満祐「義教ムカツク！！！」&nbsp;<br />
</font><br />
赤松氏は足利尊氏に従って、後醍醐天皇に反旗を翻し、尊氏が幕府を開いた時にその功のおかげで所領をもらい、以後義教が将軍になるまで、ずーっと仲良しでした。赤松満祐がこの時の赤松家のボスでした。が、義教はこの赤松氏の一族の貞村を異常に可愛がり（貞村の娘が愛妾だったから）、赤松満祐の弟の義雅の所領を勝手に奪ってしまったのです。<br />
<br />
そして奪った所領をお気に入りの貞村や細川持賢に分けちゃったのでした。これを知った満祐は激怒！なんとか返してくださいとお願いにいくも却下。満祐はめちゃくちゃブ男だったので、義教は「顔が気に入らない」とそのお願いを断ったのです。さらに義教は「満祐生意気じゃ！」と、職も格下げしてしまったのです。代わりに赤松氏のライバルである家を出世させ、赤松イジメをしたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1441年6月24日　将軍暗殺！義教の恐怖政治が終わる　嘉吉の乱</font>&nbsp;<br />
<br />
数々の義教のやり方に、とうとう赤松満祐の怒りは爆発！息子の教康とともに将軍暗殺を計画したのです。で、義教を祝賀するから来てくださーいと、自宅に呼びよせました。満祐は将軍義教のために、数々の珍味を用意し、能の舞台まで作るほど接待しまくったのです。もー義教チョーご機嫌♪<br />
<br />
そこへ突然武装した集団が乱入して来ました。そこであっという間に義教の首を斬ったのです。赤松満祐はすぐさま自分の屋敷に火をかけ、所領である播磨へ逃げていきました。赤松は逃げたんだけど、細川持常・山名持豊らが赤松を追っかけとうとう赤松満祐は自害したのです。61歳でした。<br />
<br />
そしてこの暗殺により、義教の恐怖政治は終わったのです。将軍が暗殺されたということで、将軍家の権威はガタ落ちしていくことになるのです。ちなみに赤松氏は滅び、その所領は山名氏のものに。滅んだ赤松氏の遺臣たちは度々所領を取り返そうと兵を挙げましたが、山名氏に鎮圧されまくりでした。<br />
<br />
ちなみに、赤松満祐は自害する前に、弟の義雅の息子（8歳）を密かに逃がしました。その息子は成長し、赤松家は再興できました。それはまた後ほど<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1442年　7代将軍　足利義勝</font>&nbsp;<br />
<br />
7代将軍には義教の息子の義勝が8歳で将軍に。義勝が8歳ということもあって、将軍家の権威回復は難しかった。そうこうしているうちに、なんと義勝が赤痢により10歳で死去。しょーがないので、義勝の弟の義政が8代将軍に。この義政のだらしない政治が「戦国時代」の幕開けをさせることとなるのです。<br />
<br />
義政は、まだこの時8歳だったので、もうちょっと大きくなるまで・・・と将軍になったのは6年後の14歳の時。それまでの間は将軍がおらず、「管領」が政治を取り仕切っていたのです。<br />
&nbsp;<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1449年4月29日　8代将軍　足利義政　「お今だーいすき♪」</font>&nbsp;<br />
<br />
義教の恐怖政治が終わったあと、義勝・義政とちびっこが続いたために、管領の力がパワーアップしていました。政治も全て管領が行いました。そして義勝が死んだ時に8歳だった義政も、ようやく8代将軍に就任したのです。が、「とにかく無事に丈夫に生きてさえいてくれればいい」という育ち方をしたため、ワガママで自分勝手に成長していきました。<br />
<br />
また義政には大好きな女性がいました。自分の面倒を全て見てくれていた「お今の局」です。お今は義政より10歳年上で、一応乳母なんだけど義政を女性に目覚めさせた人です。つまり性教育の相手で、義政は性のてほどきを全て教えてもらい、お今がだーいすきなのでした。<br />
<br />
「ボク、お今さえいてくれればいいんだ！」と、将軍はお今にメロメロ。そんな義政＆お今にムカムカしていたのが実母の重子。重子は「日野家」の娘でした。3代将軍義満の頃に日野家の娘が「正室」になってから、代々将軍家では「日野家」の娘が正室になることになっていました。<br />
<br />
重子は「あんな女狐にいいようにされちゃって！早く義政を日野家の娘と結婚させなくちゃ！」と焦りました。そして選ばれたのが日野富子だったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1456年8月27日　日野富子　将軍義政と結婚する</font>&nbsp;<br />
<br />
義政生母である重子は、お今の局が大嫌いでした。義政の母でありながら、お今の局にその立場を奪われたことが腹たって仕方なかったのです。重子が義政の結婚相手に選んだのが富子。この時、富子は16歳でお今の局は30歳。<br />
<br />
重子は「富子のような若くてキレイで初々しい女性であったら、お今にも勝てるかもしれないわ。義政だって20歳になったんだから、そろそろ他の女に目移りする頃でしょ」と、読んだのでした。さらにお今の局が女児を出産しており、もし男児が生まれちゃったら大変！ってことで、富子は義政と結婚させられることとなったのです。<br />
<br />
富子　「なんなのココ？」 16歳で正妻（御台所）となった富子。が、結婚してすぐに強烈なライバル「お今（今参りの局）」に出会うことになりました。「フン！あんたみたいなお子ちゃまにアタシを超えるのは無理よ」って感じのお今でしたが、実はお今も焦っていました。なんせ富子は16歳。しかも美人で血筋もいい。<br />
<br />
「こうなったら、こっちも・・・」と、お今の局は富子よりも若い佐子（さんこ）という女性を義政の側室に差し出したのです。富子はビックリ！義政の母重子は激怒！「富子殿！こうなったら、佐子よりも絶対先に男の子を産むのよ！」とせきたてるのでした。御所では女のバトルが繰り広げられることとなったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">義政を取り囲む人々と時代背景&nbsp;<br />
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義政には「三魔」と呼ばれる人がいました。お今・烏丸資任・有馬持家の3人で、みんな「ま」がつくことから「三魔」と呼ばれていたのです。さらに義政の育ての親である伊勢貞親というのもいて、義政はこの三魔＋伊勢には逆らえないのでした。<br />
<br />
また、世の中は一揆が吹き荒れていました。農民らは貧しさに耐えられず、豪商などを襲いまくっていたのです。ですが御所はそんなの「関係ないねー」といった感じで、誰が最初に男の子を産むかが最大の関心ごとでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1458年　御所は妊娠ラッシュ</font>&nbsp;<br />
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そんな中、お今の局の息のかかった佐子が妊娠しちゃいました。富子は焦りまくり。ですが、その何ヵ月後かに富子も妊娠したのです。義母の重子は大喜びでした。あとはどっちが男の子（世継ぎ）を産むか！？と、御所内は話題騒然となったのです。<br />
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ちなみに義政はすでに女の子が2人いました。佐子の子は3人目になります。そして佐子が出産。それは女の子でした。「また女か！」と義政はうんざり（ひどいよね）その1ヵ月後、富子は念願の男児を出産したのです。もー義政大喜び。お今の局はめちゃくちゃ悔しがりました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">お今の局追い出される</font>&nbsp;<br />
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初の男児誕生に大喜びの義政＆富子。ですが、その男児が全然お乳を飲まないのです。そして生まれてから7日目、その男児は死んでしまったのでした。もう富子大ショック！おなかを痛めて産んだ念願の男児が死んでしまい、泣きまくりでした。<br />
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すると母親の重子が「これはお今の陰謀よ！お今が呪詛したに違いないわ！」と叫んだのです。お今の局は必死に弁解しました。心の中は「幼い頃から私のことをスキだった義政が、私を捨てるわけないじゃない」とは思っていたんですが、気の弱い義政は富子＆重子の恨みつらみに耐える事ができなくなってきました。そしてとうとう、「お今を流罪にする」と宣言したのです。<br />
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お今の局はビックリ！正直義政は「とりあえず富子＆重子が怖いから、琵琶湖の沖島に流すけど、ほとぼりが冷めたらまた戻しちゃお」と考えていました。ですが、こんなチャンスを重子らが見逃すわけがありません。重子＆富子の兄である勝光は、お今がいなくなれば権力をゲットできるチャンスなのです。<br />
<br />
そしてお今が流される時に、密かに「お今暗殺」を命じました。それを知ったお今は「殺されるくらいなら！」と、自ら喉をついて自害したのです。これにて御所内のお今一派の勢力はなくなり、富子は御台所として発言権をゲットすることとなりました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">義政「ワシ、もっともっと遊びたーい」<br />
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</font>その後富子はまた妊娠・出産しましたが女児でした。義政は「もうワシに男の子は授からないんだ」と、さらに遊びまくるのです。政治にも飽き飽きしてしまい、風流三昧の生活をしだしました。ワガママに育った義政は、酒・女と毎日毎日遊びまくり。<br />
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世の中は飢饉に陥っており餓死者も続出しているというのに、そんなの知るか状態でした。あまりの幕府のだらしなさに朝廷の後花園天皇にまで「みんな飢えに苦しんでいて、かろうじて生き残った人々はわらびなどを採って飢えを凌いでおりますぞ？あなたは毎日何をやってるんですか？」と、嫌味を言われたんだけど義政はそれも無視。<br />
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懲りることなく自分の為の寺を建てたり、庭をキレイにさせたりと自分の遊びのことで頭の中はイッパイでした。そうこうしているうちに、重子も死んじゃって、義政はますます「文句言うヤツがいなくなったゼ」とばかり遊びまくるのでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1464年11月　義政「弟に将軍譲っちゃおっと」</font>&nbsp;<br />
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早く風流三昧の生活がしたくて仕方なかった義政。まだ30歳だというのに「いつまでたっても男児が生まれないし、この際、弟の義視に将軍譲っちゃおうかな・・・」と考え始めていました。この時、富子はまだ25才。これからでも男児を産むチャンスはいくらでもあるっていうのに、義政は「もし生まれたとしても、その子が成人するにはまだまだ時間がかかるよなぁ。ワシ、そんなに政治やりたくないよ」と思っていたのです。<br />
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弟の義視は母親が違う２才年下の弟で、4歳の時にお寺に入れられていました。義政は富子に内緒で、弟の義視のもとに「将軍にならない？」と使者を出したのです。話しを聞いた義視はビックリ。「だって義政はまだ30歳じゃん！これは何かの罠か？」と疑いまくりでした。<br />
<br />
義視は「将軍職など、私には縁遠いものでございます。ご遠慮させていただきます」と返事をしました。ですが義政は諦めず、義視が驚くくらいしつこく誘ったのです。義視の方が面食らってしまい「だって義政殿には富子殿もおられるであろう？そのうち男児が産まれるであろうから、それまでお待ち下さい」と言ったんですが、義政は「大丈夫じゃ！ワシに男児が生まれても絶対将軍にしないから！寺に入れるから！」と言って来たのです。<br />
<br />
ここまで言われた義視。義視が調べると、どうやら義政のバックには細川勝元がついてることがわかりました。細川勝元は日野勝光が富子の力をバックに偉そうにしているのが気にいらなかったのです。「あの義政が気まぐれでやってることなら危ないけど、細川勝元がついてるなら大丈夫かな。それじゃあ・・・」ということで、義政の誘いにOKしたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">富子ビックリ！「あんた何やってんのよ！」</font>&nbsp;<br />
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「義政が将軍職を弟の義視に譲った」というニュースを事後報告された富子。「はぁ！？なんですってぇー！何の相談もせずにあのバカ！」状態でした。さらに万が一富子に男児が生まれたら、その子供を仏門に入れると約束した・・・ということまで聞いて、富子は大激怒！<br />
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そんな中、富子が妊娠したということがわかったのです。富子は義政に「こんな大事な事を勝手に決めるなんて！何考えてんのよ！もし、今おなかの中にいる子が男だったら、悪いけどアンタの弟を将軍にさせないからねっ！」と義政にブーブー文句を言ったのでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1465年11月23日　富子　男児出産！</font>&nbsp;<br />
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1465年11月20日。次期将軍となるべく弟の義視が27歳にして元服式を行いました。義視の後見人として細川勝元が選ばれました。その3日後、富子がとうとう男児を出産したのです。それを聞いた義政は大喜び。「やっと男の子が産まれたぁ！」と喜びの色を隠せませんでした。<br />
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将軍と御台所（正室）との間に生まれた、由緒正しき血筋の男児である義尚（よしひさ）ですが次期将軍は弟の義視に決まってしまっている。さらに産まれた由緒正しいその男児は、寺に入れると約束してしまっている・・・・。将軍家に怪しい空気が流れ出すのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">管領細川勝元VS山名宗全</font>&nbsp;<br />
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義視の後見人となった細川勝元。管領というのは、三代将軍義満が一つの家に権力が集まらないように山名・細川・斯波の3つの家に順番にやらせるようにした「役職」でした。若くして管領になった細川勝元は、もう１人の管領である畠山持国に負けたくない！と、四識（侍所長官を担当。山名・一色・赤松・京極の４家で交代）の1人で、父親くらいの年齢である山名宗全（やまなそうぜん）に近寄りました。<br />
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山名宗全は、元々は新田系だったため足利一門とは認めてもらうことができない家柄でした。そのため、三管領に選ばれなかったのです。ですが、足利尊氏と弟直義の対立に乗じて勢力を伸ばし、嘉吉の乱の時に赤松満祐を滅ぼして沢山の所領を貰い、当時の実力者となっていました。<br />
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宗全の方も若い管領である勝元が頼ってきたので、自分の地位をさらに強くするチャンスと、勝元を可愛がり、自分の娘を嫁がせたりしたのです。宗全は勝元を何かにつけては助け、娘と勝元の間に子供が生まれないというので、自分の末っ子である豊久（とよひさ）を養子にするなど、親密な関係を築いていました。<br />
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ところが！勝元も次第に管領職に慣れていき、畠山持国と同じくらいのレベルまでのし上がってくるように。こうなると何かと口を出してくる宗全が逆にうざったくなってきたのです。さらに勝元に息子が産まれました。そうなってくると宗全から貰った養子の豊久が邪魔になってきたのです。<br />
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勝元は「どうせなら細川家の後継ぎは自分の子にしたい。宗全は怒るだろうけど、オレはもう昔のオレじゃないし。」と強気になり、豊久を寺に入れてしまったのです。それを知った宗全は激怒！豊久を寺から還俗させ、自分のもとに引き取りました。このような経過があったため、山名宗全と細川勝元は今やめちゃくちゃ仲が悪くなっていたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">義尚の後見人は山名宗全に決定！</font>&nbsp;<br />
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義視の後見人が細川勝元であれば、こちらは・・・・と、考えたのが富子の兄である日野勝光。勝元に対抗できるほどの実力のある人は、山名宗全しかいないだろう！と、宗全に義尚の後見人になってくれるよう頼んだのです。勝元に裏切られ、怒っていた宗全は二つ返事でOKしました。こうして次期将軍義視には管領　細川勝元が。義尚には実力者　山名宗全が後見人となったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">管領　斯波氏の家督争い</font>&nbsp;<br />
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将軍家が後継者問題で怪しい影が見え始めていた頃、三管領の斯波氏と畠山氏もマズイことになっていました。斯波氏では当主の義健（よしたけ）が後継ぎを決めないまま死んでしまいました。重臣達が話し合った結果、一族の義敏（よしとし）が選ばれたのです。が、この義敏は重臣達とイマイチ気が合わず、ケンカして追放されてしまったのです。<br />
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義敏の後には、一族の遠縁である義廉（よしかど）が選ばれました。納得いかないのが義敏でした。細川勝元に「将軍義政から、おれんとこの重臣を言い聞かせ、義廉を追放してよ！」とお願いしに行ったのです。義政は勝元に後見人になってもらったということもあって、素直にそのお願を聞き入れ、なんと義廉を追放しちゃったのです。ここに飛び出してきたのが山名宗全。<br />
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宗全は義廉が斯波家の後継ぎになると決まった時に、自分の娘と結婚させる約束をしていたのです。宗全は義政に「勝手なことをされても困る！義廉の追放を取り消せ！さもなくば兵を出して義敏を追っ払いますぞ？」と脅してきたのです。義政は怖くなっちゃって、義廉を許すという事態に発展してしまいました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">管領　畠山氏も家督争い！</font>&nbsp;<br />
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さらにタイミングの悪いことに、管領畠山氏でも問題が勃発。畠山氏の当主である持国にも子供が生まれませんでした。そこで持国は弟の持富（もちとみ）の子である政長（まさなが）を養子に迎えたのです。ところが、政長を迎えた直後に側室が義就（よしなり）という子供を出産してしまったのです。<br />
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将軍家と全く同じですね。当主の持国も「後継ぎはやっぱり自分の本当の子だよなぁ・・・」と思い、養子の政長を廃して、実子の義就に後を継がせちゃったのです。政長派の家臣達は、細川勝元に「持国を隠居させて、義就を追放してよ！政長を畠山家の当主にしてくれよ！」とお願いしちゃいました。勝元はあっさり「うん、いいよ」とOKしちゃったのです。<br />
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納得できないのは義就派。細川勝元の対抗馬である山名宗全に「どうにかしてよ！」とお願いしちゃったもんだから、大変なことに。宗全は後見人を務めている義尚の母である富子にお願いし、義政に何とか言ってよとお願いしたのです。将軍義政は、義視を次期将軍にしてしまったという負い目もあり、富子に逆らえませんでした。<br />
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「全て富子の言うとおりにしますヨ」と、発言しちゃったのです。すったもんだの挙句、なんとか後を継いだのは養子の政長でした。勝元VS宗全の争いに加え、バカ将軍の適当な裁決により、幕府はめちゃくちゃになっていくのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">幕府はぐっちゃぐちゃに！</font>&nbsp;<br />
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将軍家の後継ぎ問題に始まり、三管領でもぐちゃぐちゃの家督争いが続きました。どの争いにも全て細川勝元と山名宗全が絡み、二大派閥は対立しまくることとなったのです。そこに頼りない将軍義政が適当で無責任な裁決をするもんだから、争いの種はますます広がっていくのでした。<br />
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さらに義政は「やっぱ自分の子が一番可愛いよな」と、絶対息子を将軍にさせない！と誓って、義視を迎え入れたというのに、その約束をどうにか撤回できないもんか？と考え出したのです。そこに側近の伊勢貞親が「義視が早く将軍になりたいからって義政殿をどーにかしてやろうと考えてるそうですヨ」と諫言してきました。<br />
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これはラッキーとばかり、義政は義視を捕らえようとしました。危険を察知した義視は、後見人である細川勝元の所に逃げ込みました。が、勝元は「義政はすでに義視を将軍にさせるつもりはないのだなぁ。義視の味方をしてるとワシは損なんじゃないか？」と思うように。そう読んだ勝元は、後見人でありながら義視を追放させるべく動き出したのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">義視　伊勢へ逃げる</font>&nbsp;<br />
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勝元が自分を追放しようとしている！と、感じた義視は、仕方なく伊勢へ逃げ込みました。無理やり寺から「将軍にしてやるから来い」と引っ張り出された義視は、義政と勝元に見捨てられてしまったのです。ところが！ここでまたもや飛び出してきたのが山名宗全。<br />
<br />
敵であったはずなのに、勝元憎さから義視に救いの手をさしのべたのです。「せっかく憎い勝元と将軍が不穏な感じになってたっつーのに、モトサヤに収まっちまったぜ！こうなったら何が何でも勝元に対抗したる！ワシの意地じゃ！」と、宗全は義尚の後見人でありながら、義視を助け出したのです。<br />
<br />
もはや信じられない状況となっていました。かつての敵と味方が入れ替わってしまうという、とんでもない事態に発展していったのです。<br />
&nbsp;<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">山名宗全「おのれ勝元めぇー！」</font>&nbsp;<br />
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こんな状況の中、なんと滅ぼしたはずの赤松氏が、生き残った12歳の赤松政則をひっさげ「赤松家を再興させてくれー」とお願いしてきたのです。もちろんバックは細川勝元。山名宗全の鼻を明かすために、わざと赤松家の味方についたのでした。<br />
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義政は「うん。OK」とあっさり許可し、赤松家は再び日の目をみることとなったのです。もー山名宗全は激怒しまくり！「勝元めぇぇぇぇぇ！今に見ておれぇぇぇぇ」と、山名宗全VS細川勝元はさらに火花を散らしたのです。</p>]]>
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    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%85%A8%E7%9B%9B%E3%81%A8%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 04:49:20 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>室町幕府誕生</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">11月　和解の条件は？<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は京都へ戻り、尊氏と和解することに。和解といっても尊氏方が優勢でした。<br />
条件は</p>
<p>①後醍醐天皇は退位する</p>
<p>②光明天皇に三種の神器を渡す</p>
<p>③光明天皇の皇太子は大覚寺統から立てる。そして以後大覚寺統と持明院統は交代で天皇を出す</p>
<p>④天皇にお供していた公家と官女は罰しない</p>
<p>以上の４つでした。とはいっても①と②は新田義貞の要求によってすでに行っちゃっています。尊氏はまだこのコトを知りませんでした。知ったら大変なコトになっちゃうので後醍醐天皇は秘密にしていたのです。<br />
そして11月２日に後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に渡しました。この時の三種の神器も偽物だそうです。 <br />
11月7日　建武式目を制定する&nbsp;<br />
<br />
尊氏は17条からなる「建武式目」を制定しました。鎌倉幕府のイイトコだけをもらった内容です。</p>
<p>簡単に内容を書くと</p>
<p>①幕府を京都に置く<br />
②女性や僧侶の政治介入は禁止<br />
③京都の治安回復をする<br />
④武家全盛時代を作る（北条義時・康時親子が見本）<br />
⑤賄賂は禁止<br />
⑥倹約第一とすること<br />
⑦礼儀正しくすること<br />
⑧罪もない人の家を壊したりしない<br />
⑨バクチに熱中しない<br />
⑩商業を盛りたてること</p>
<p>などなど。北条義時・泰時親子を見本にするというのは、この頃承久の乱があり後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして失敗した事件。この親子を見本にするということは「朝廷がまた幕府にイチャモンつけてきたら武力によってやっつけますよ？」という牽制の意味も込めていました。<br />
<br />
「新しい政治は武士による武士のための政治である」という尊氏に対し、後醍醐天皇は「日本の国は天皇が一番偉いのである。よって日本の政治は天皇が治めるものである」という意見と真っ向から対立するのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">１２月　後醍醐天皇　京都を脱出<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は建武式目の①を見て大ショック！「尊氏め！なぜ鎌倉で幕府を開かんのじゃ！われらを監視する気か！」とカンカン。そして尊氏らは京都にて、後醍醐天皇の建武の新政をことごとくぶち壊し、武士のための新政府をスタートさせたのです。もう後醍醐天皇のプライドはズタズタ。<br />
<br />
「このまま京都にいたら私は監禁されたまま死ぬかもしれん。武士のための世の中など耐えられん！京都を脱出しどこかに新しい朝廷を開こう」と考えるようになってきたのです。そして後醍醐天皇はその計画を信頼できるものに伝えた。すると北畠親房から連絡がきたのです。「楠木正成の残党がお迎えに上がります」というものでした。<br />
<br />
楠木正成の子である正行（まさつら）はまだ成人していなかったんだけど、桜井で父と訣別した後、一族達ともに天皇のために力を蓄えていました。そして１２月２１日　約束どおり天皇のもとに楠木一族がやってきたのです。そして楠木一族に案内されたのは吉野でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐天皇「オレが本物の天皇だ」宣言　南北朝の始まり<br />
<br />
</font>吉野に到着した後醍醐天皇は早速「私こそ本物の天皇である！その証拠にこちらには本物の三種の神器がある。光明天皇が持ってるのは偽物である」と宣言したのです。これにはみんなビックリ！新田義貞も遠い北の国でこのニュースを聞き、自分が騙されたことを知ったことでしょう。対する光明天皇側も「何をバカなこと言っておるんじゃ。こちらが本物の朝廷じゃ」と宣言したのです。<br />
<br />
世間では吉野の朝廷を「南朝」と呼び、尊氏らのいる京都を「北朝」と呼ぶように。そして南北朝の戦いは以後６０年間続くのです。早速直義や高師直が「吉野の後醍醐天皇を攻めましょう。そして二度と戻って来れないような島に流しましょう！だいたい尊氏殿がヤツに甘いからいつまでもガタガタとうるさいんですよ！」とブーブー文句言いまくったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　吉野は攻めませんよ宣言で人気急上昇</font>&nbsp;<br />
<br />
直義や高師直が激怒している中、尊氏は「天皇は勝手に京を出て行ったが、そちらで自由に暮らせるというならそれはそれでいいでしょう。後醍醐天皇の警備の武士達にも苦労をかけましたし、私はこれ以上武士達に気苦労をかけたくありませんから。運は天が決めるでしょう」と言ったのです。<br />
<br />
これには全国の武士をはじめ京の人々までもが「尊氏殿はとっても心が広く、度量のある方だ」と感心しまくったのです。が、吉野朝廷はコレに激怒「こっちには三種の神器があるっつーのに、尊氏はそのことに全く触れていないじゃないか！あえて無視してこちらを相手にしてませんよみたいな偉そうな態度は許せん！」とブースカ言い出したのです。後醍醐天皇は新田義貞も裏切ったことになったので、頼りになるのは２０歳そこそこの北畠顕家のみだった。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1337年　まだまだ日本中はバトルの渦　義貞死す<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は北畠顕家に「京都を攻めろ」と手紙を送りました。ちょうどこの頃、北畠顕家の元では反乱が起こっていたので「反乱をおさめ次第すぐに向かいます」と返事をしました。さらに九州において菊池一族がまたも立ち上がったり、北陸では恒良親王のもとで新田義貞が「打倒尊氏」を掲げバトルし始めたのです。<br />
<br />
日本はまたも戦乱の渦に巻き込まれたのです。1337年の８月には北畠が大軍を率いて京都にやってきました。これには高師直が大健闘。「ヤツラは東北からぶっ通しでやってきたから疲れている。休む間を与えず攻めまくれ！」と号令。この作戦は大成功。北畠も奮闘しまくったが疲れがたまりまくってとうとう戦死したのです。２１歳でした。一方、北陸からやってきた新田義貞も一時はすっごい勢いでした。が、尊氏に味方する地方武士らが義貞の行く手を阻みまくったのです。そこへ高師直の兄である師泰が攻め込み、義貞の長子である義顕が自刃。<br />
<br />
義貞はなんとか逃げ切ったのですが、平泉寺の僧侶達が「俺らの土地を荒らすな」と義貞に背き、この戦いで流れ矢に当たってあっけなく死んでしまったのです。最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くした義貞。３８歳でした。北畠顕家の父である親房は「東北に行き、再挙するべく力を蓄えよう」と船で帰ったんだけど、台風に襲われめちゃくちゃになってしまった。<br />
<br />
なんとか親房は助かりましたが、もう再挙する力が残っていませんでした。後醍醐天皇の南朝方の武将は次々と倒れていったのです。が、後醍醐天皇のいる南朝だけは抵抗をやめなかった。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1338年８月　尊氏征夷大将軍に　室町幕府始まる<br />
<br />
</font>光明天皇は尊氏を征夷大将軍に命じました。実質的にはすでにNO1だったんだけど、正式に日本の武士の最高権力者となったのです。そして正式に室町幕府を開きました。将軍である尊氏が侍所や恩賞を管理し、弟の直義が裁判や所領の保障なんかを担当し政務を2分割した。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1339年８月16日　後醍醐天皇死す<br />
<br />
</font>後醍醐天皇にとって尊氏を倒すことは執念に近いものとなっていました。南朝はお金もだんだんなくなってきて、貧乏生活に突入。それでも「尊氏を討て」という綸旨を出し続けていました。この頃になると最後の頼みの綱として残ってるのは九州の菊池一族らのみでした。が、肝心な後醍醐天皇が病気になってしまったのです。そして８月には入ると危篤状態となりました。１６日、とうとう息を引き取ったのです。<br />
<br />
後醍醐天皇は死ぬ前に「私の骨はここに埋まろうとも、魂はいつも北の天を睨んでいる」といいました。後醍醐天皇にとって北朝にいる尊氏は、魂となり死んでも尚、憎い存在だったのです。後醍醐天皇の死はすぐさま北朝に伝わりました。<br />
<br />
尊氏は後醍醐天皇の死を聞くと「なに・・・・？」と呆然としました。そして家臣らに喪に服すよう言ったのです。そして尊氏は後醍醐天皇の魂を弔うために「天竜寺」という寺を作りたいと言い出した。弟の直義は「何もそこまでする必要ないのに・・・」と思いつつも、あまりにも天皇の死にショックを受けている尊氏を見て少しでも気休めになれば・・・と精神安定のために天竜寺を建てることを賛成しました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏の足元がぐらつき始める・・・&nbsp;<br />
<br />
</font>いつまでもぐずぐずと後醍醐天皇の死を悲しむ尊氏。それとは反対に直義は意志の強い男でした。この時代の武士は「貴種尊重」という、尊い血筋をめちゃくちゃ尊敬する気習と、「長男尊重」という気習がありました。尊氏がまさにピッタリだったんですが、直義は「兄は少し気が弱すぎる・・・。実質的な政治はオレがやろう」と思うようになってきたのです。<br />
<br />
尊氏は人がいいから直義の言うことに間違いはないだろうと何でも直義におまかせ。が、ここに一人「直義殿の最近のやり方はちょっとなぁ。尊氏殿を利用して自分の野望を遂げようとしてるんじゃないか？」と思う人が出てきたのです。それが共に戦ってきた高師直でした。<br />
<br />
そして高師直は次第に直義を警戒するようになり、直義の方もなんとなくそんな高師直を敬遠するようになってきたのです。有能で女好きの高師直 高師直の才能を高く評価していた尊氏。直義とともにずーっと自分の右腕にしていました。師直は北畠顕家・新田義貞・楠木正成との戦いの時も常に最前線で大健闘。多くの武将を威服させていました。<br />
<br />
そのため師直の兄である師泰は侍所の長官に取り立てられ、兄弟そろって足利幕府の軍事上の権限をゲット。大活躍の師直はだんだんと態度がでかくなってきたのです。昔っから四位以下の官位の者はボロい家に住まなきゃなんないのに、しきたりを気にしない師直はめちゃくちゃ豪華な家を修築して贅沢な生活を始めました。<br />
<br />
また大の女好き。公卿の娘だろうが皇族の女性だろうが手を出しまくり。美女と見ると相手かまわず手をつけたのです。しかも飛びぬけた美人は自分の家に囲っておいて、毎晩色んな女のトコへ行ったりしました。<br />
<br />
そして関白に二条道平の妹も掠奪！子供まで産ませてしまい二条道平は「田舎者の武士にいいようにされてしまうとは！」と天下に赤恥じをさらしたのです。さらに後醍醐天皇の外戚で絶世の美女といわれていた早田宮の娘に目をつけました。だけどこの娘にはれっきとした塩谷高貞というダンナがいたのです。師直は何度もアタックするも、とうとうこの横恋慕は実りませんでした。<br />
<br />
だけど師直黙っちゃいない。尊氏＆直義ブラザーズに塩谷高貞の悪口を散々言ってしまいそれを信じた尊氏は高貞を攻め滅ぼしてしまったのです。この頃になると師直は自分が軍事を担当してるんだから、オレ様に怖いものなんてないぜ！と思うように。次第に幕府の法も無視していくようになるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　一人悶々と思い悩む　「直義のせいでオレは・・・」<br />
<br />
</font>後醍醐天皇が死んだ後の南朝では新しく後村上天皇が即位しました。阿野廉子の息子です。そして声高々に「南朝はあくまでも尊氏を討つ気持ちは変わらない！必ず北朝を潰す！」と宣言したのです。<br />
<br />
さらに尊氏の尊敬する高僧　夢窓疎石（むそうそせき）が「後醍醐天皇は深い恨みを持ちつつ死にました。息子の護良親王も同じです。この２人の恨みは後に天災となり祟りを起こすかもしれませんぞ」と言ったのです。尊氏は恐怖心も手伝い、神仏へ依存するようになってきました。そして<br />
<br />
「オレは直義の影響が強すぎたのかもしれない。兄弟一緒になって天下を取るべく歩いてきたが、この選択は本当に正しかったのだろうか？オレが今までやってきたことは全て直義の言いなりになってきただけではないだろうか？オレは本当は後醍醐天皇のことだってスキだったのに、後醍醐天皇に恨まれたのも全て直義のせいではないか。本当のオレというものはなく、今までのオレは直義の操り人形にすぎなかったのかもしれない」と思うようになってきたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">足利直義VS高師直<br />
<br />
</font>直義も高師直も元々天皇に対する尊敬心はあまりなかった。むしろ尊氏が天皇命！って感じだったのをバカにしていました。が、直義は政治を担当していくにつれ、「地方武士たちは貴種尊重が強い。天皇に対しても何だかんだいいつつ崇拝の気持ちを抱いている。この崇拝心を急速に打ち砕くのは賢いこととはいえないな。地方武士たちを統率していくには、武士達が持っている天皇崇拝の気持ちを逆に利用したほうがうまくいくかもしれない・・・」と考えるようになってきたのです。<br />
<br />
これが高師直には気に喰わなかった。「なんだなんだ？直義殿も尊氏殿と同じく、ついに御所の犬になったのか？」と馬鹿にし始めたのです。師直はますます皇室嫌いに輪がかかり、「尊氏殿も直義殿も武士だというのに、武士の気持ちを忘れて昔の平家のように朝廷に取り入ろうとしている！武士は武士らしくせねばならんのだ！」という気持ちがますます強くなりました。<br />
<br />
地方武士が恩賞のことで皇室側のために不利になったと相談してくると「じゃあ自分の武力で取り返せ！それが武士というものだろう？バックにはオレがついている」と煽り、武士達はその通りに実行。力で公家達の土地を奪いました。<br />
<br />
また京都市内で上皇の車が通っても武士達がお辞儀しないので、天皇の供が「これは上皇の車であるぞ！脇に寄れ！」というと、武士達はバカにしくさって弓矢を放ったり。直義はこういった師直の態度は逆に幕府の政治をやりにくくする・・・と、師直に文句を言いに行ったのです。「師直どの。ここんとこ武士が乱暴だという苦情が多すぎる！もう少し自重してくれ」<br />
<br />
「何を言ってる。今は武士の世の中だぞ？だいたい尊氏殿や直義殿が公家連中に優しすぎるのじゃ。あいつらなどもっと徹底的にぶっ潰してしまえばよいのだ。」「そうはいかん。だいたい師直殿は足利家の執事であろう？少し言葉が過ぎるぞ。」「確かにワシは足利家に仕えているが、仕えているのは長男の尊氏殿にだ。良かれと思うことは口出しさせてもらうぞ。だいたい直義殿こそ征夷大将軍でもないくせに政治を自分の思いのままにしすぎじゃないのか？」と、２人は毎日激突しまくったのです。&nbsp;<br />
<br />
直義には評定所・引付衆などの職員のほかに鎌倉で政治をやっていた時に仲良くなった東国の武士。師直には戦功によって出世させてもらった武士達や譜代の家臣たち。お互いいつバトルが始まってもおかしくないくらい険悪になっていったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1342年9月　土肥頼遠　「院？犬のことか？」事件</font>&nbsp;<br />
<br />
バサラ代表選手・土肥頼遠が事件を起こしました。それはある晩のこと、しこたまお酒を飲んだ頼遠が車に乗って帰っている途中に、光厳上皇の車とばったり出会ったのです。上皇側は「おい！この車は恐れ多くも院の車でござるぞ！馬から降りろ！」と怒鳴りました。が、土肥頼遠は「あぁん？こっちこそこのオレ様だぞ！このオレに馬から降りろだとぉ？」と、馬から降りる気配まるでなし<br />
<br />
怒った上皇側の家臣たちが「この田舎武士めが！院に対して何たることじゃぁ！」と騒ぎまくりました。すると土肥頼遠が「なに？院？犬？どっちだぁ？わははは。犬なら矢を放ってしまえー！」と言ったのです。そして頼遠の家臣らは上皇の乗った車を取り囲み、矢を放ったりとさんざんバカにしまくったのでした。車に乗ってた上皇はひたすらお祈りをしてたそうです。そして上皇を乗せた車は、ボロボロになったまま泣く泣く帰りました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">直義怒る！「なにをやっとんじゃーー！」</font>&nbsp;<br />
<br />
この事件を聞いた足利直義はビックリ！「なんてバカなことを！こうなったらヤツラを殺して塩漬けにしたる！」と超激怒それを知った土肥頼遠はさっさかと本国へ逃げちゃいました。が、直義は「頼遠をとっ捕まえろ！」と兵を向けようとしたので、頼遠は自首し、なんと首を斬られてしまったのです。この事件は多くの武士に衝撃を与えることとなりました。<br />
<br />
それでもバサラの風潮は留まることはありませんでしたけどね。ちなみに斬られた土肥頼遠は清和源氏の子孫で、ずーっと足利尊氏についていた武将です。和歌もたしなんでおり、ただの傍若無人な男ではなかったそうです。<br />
<br />
ちなみに土肥家は息子が継ぎました。その後も本家は潰れましたが、分家は明智光秀などの子孫を出し、「土肥家」は明治維新まで続きました。<br />
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<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">怒った師直！直義に攻撃　兄弟絶縁！<br />
<br />
</font>直義と師直の険悪指数はヒートアップしてきました。とうとう怒った師直は直義に兵をもちいて攻撃してきたのです。軍事力となってしまうと直義は師直に敵わない。直義は尊氏のもとに逃げ込みました。そして「兄上！私と師直どちらを取るかはっきりとしてくれ！」と詰め寄ったのです。<br />
<br />
もちろん尊氏は「師直！お前は足利家の執事だぞ！思い上がるのもいい加減にしろ！」と直義をかばいました。すると師直は「そうは言っても尊氏殿。あなたは今まで直義殿に操られっぱなしではありませんか？世間でも本当の征夷大将軍は直義殿だと噂していますぞ。これだけ直義殿に操られても直義殿を取るのですか？私はいつまでも尊氏殿の忠臣ですぞ」と詰め寄ったのです。<br />
<br />
尊氏は黙り込んでしまいました・・・。直義は「まさか・・・？まさか兄上私を・・・？」と聞き返すと、尊氏は「直義、お前をクビにする」と言ったのです。直義は大ショック！「何をバカなことを言うのですかっ！？幼い頃から兄上のために生きてきたというのに！」だけど尊氏の意志は変わらなかった。<br />
<br />
「なるほど、わかりました。兄上がそういう考えならもう何を言っても仕方ありません。もうあなたを兄とも思いません。私がいなくなったらあなたは何もできないただの将軍となるでしょう」と出て行ってしまいました。尊氏と直義の兄弟愛があっけなく壊れてしまったのです。この兄弟絶縁は日本中が驚きました。<br />
<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">直義　南朝へ寝返る&nbsp;<br />
<br />
</font>ここで九州で動いた男がいました。尊氏の息子直冬です。尊氏は何故か実子である直冬がキライで、全然可愛がらずにいました。なぜかというと直冬のお母さんは白拍子だから。時のスーパースター尊氏が白拍子に手を出して、しかも一発で子供を産んじゃったなんてみっともないってことで、尊氏は直冬を毛嫌いしてたのです。<br />
<br />
常日頃それを不憫に思っていた直義は直冬を自分の養子として可愛がったのです。なので直冬は尊氏よりも直義のほうが大好きでした。直冬は義父の直義が悲惨な目にあったのを怒り、九州で挙兵したのです。尊氏は仕方なく師直に直冬軍鎮圧を命じましたが、直冬軍の勢いはすさまじく師直でさえも圧倒されまくり。尊氏は意を決して可愛がっている息子の義詮を京都に残し、師直とともに直冬軍をやっつけにいったのでした。<br />
<br />
尊氏らが直冬をやっつけにいった２日前、直義はひそかに京都を脱出し大和へ向かった。そして驚いたことに、直義は南朝へ入れてくれと言ったのです。南朝の方も驚きました。なんといっても尊氏の弟です。スパイか！？と南朝は大騒ぎ。が、兄弟同士が争うのは南朝にとって大歓迎だし、いっそ２人がブッ潰れてくれたらこんなにラッキーなことはない。南朝は直義を受け入れたのです。<br />
<br />
尊氏はこの報告を聞いてビックリ！あれほど後醍醐天皇やその家臣らを苦しめていた直義が、なぜ南朝に降伏するのか？直冬もすごい勢いで九州を制圧しちゃったし、ここで直義が南朝に入ったもんだから「今が尊氏をやっつける最大のチャンス！」と各地の南朝系地方武士らも立ち上がりだしたのです。<br />
<br />
この戦いは直義が勝ちました。直義は尊氏を嫌っているやつらに味方になるよう動きまくり、得意の頭脳で南朝を勝利に導いたのです。そして直義は師直が謝れば許してやる！謝んなきゃ殺すぞ！ということに。師直は仕方なく出家することになったのです。<br />
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<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1351年　2月26日　高師直死す！</font>&nbsp;<br />
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そして師直は尊氏・直義の元へ行くために京都へ向かいました。そこに師直に恨みをもった直義の家臣だった上杉・畠山が待ち伏せしており師直を殺してしまったのです。上杉にいたっては尊氏の母の妹の子供で、「なぜ一門の俺らが執事の家柄である師直より格下でいなければならんのだ？」と師直を憎んでいたのです。<br />
<br />
兄の師泰は師直の後を歩いていましたが、弟が斬られたのを見て走りよろうとしたところを後ろから槍で突き刺され、痛みに耐えかねて馬から落ちたところで首を斬られてしまったのです。「しきたり」というものに全くこだわらず、「権力」「名門」にも屈せず、おのれの力だけを信じ傲慢で自由奔放にやりたい放題で生き抜いた師直。尊氏の天下取りは師直がいなければ果たせなかったのではないかと言われるほど有能で優れた戦略家でした。色んな面において「破壊」という文字がピッタリの、本物の悪の象徴に代表される武将でした。<br />
<br />
これを知った尊氏は超激怒！上杉・畠山を引き渡して処刑しろ！といったんだけど、直義は処刑だけはと押しとどめ流罪となりました。この頃（1350年～1352年くらい）の室町幕府の権力争いを観応の擾乱（かんのうのじょうらん）といいます。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">兄弟骨肉の争いは続く</font>&nbsp;<br />
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尊氏はとうとう南朝に降伏した。（一時的にね）そして「直義追討令をくれ」と南朝に迫ってきたのです。ここまでくると兄弟骨肉の争いは凄まじいものとなって行きました。尊氏は直義とバトルしまくり。そして鎌倉まで追い込んだのです。<br />
<br />
勝利した尊氏は直義に武装解除させて和睦したのです。直義は鎌倉い幽閉されました。南朝に降伏した尊氏に対し「今更なんだ！ふざけるな！」と立ち上がってきたのが新田義宗（よしむね）楠木正行・正儀（まさのり）・北畠顕能（あきよし）ら二世チーム。<br />
<br />
父を尊氏に殺されたんだから尊氏を恨むのも当然でした。尊氏はというと、師直らも死んでしまい、赤松則村も死んでしまっていたので頼りになるのは息子の義詮のみ。戦いは泥沼化し、新田一族が鎌倉を占領したのを尊氏が奪い返しに行ったり、直義が京に攻め込んできたり、いつまでも戦いが続いていました。<br />
<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1352年　直義毒殺される<br />
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</font>鎌倉に幽閉されていた直義ですが、急死してしまいました。これには「尊氏毒殺説」が残されています。尊氏が鎌倉にいる直義にお酒を勧めました。直義は素直にその盃を受け取りました。が、頭のいい直義はその盃に毒が入っているだろうことを感じていたのです。ですが、直義はそれをぐいっと飲み干したのです。そしてその場でバタリと倒れました。尊氏はその姿をいつまでも涙を流しながら見ていたそうです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">南朝VS北朝　戦乱は続く・・・&nbsp;<br />
<br />
</font>直義の死後は尊氏と南朝の和睦は崩れました。京都は南朝の後村上天皇に占領され、関東でも新田二世や北条時行（生きていたのです）が躍起しまくったのです。尊氏と義詮はこれらを撃破して、京都も奪回するが北朝の光厳天皇や光明天皇が南朝に拉致されたりと、戦乱は続きまくっていたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1358年4月30日　足利尊氏死去</font>&nbsp;<br />
<br />
１月、後醍醐天皇のために建てた天竜寺が火事で全焼してしまいました。これに尊氏大ショック。「やはり後醍醐天皇はオレを恨んでいるのだ」と絶望的な気持ちになったのです。思えば天下を取るため兄弟揃って戦ってきた。高師直という信頼できる忠臣もいた。３人で力をあわせ北条氏を滅亡させ、鎌倉幕府を倒した。だけど後醍醐天皇には気持ちが通じず哀しい思いをした。<br />
<br />
新田義貞という最大のライバルを倒した。楠木正成という真の武士がいた。だが、残ったのは俺一人だ・・・。尊氏は義詮を呼んだ。「朝廷が二つあるからいつまでも戦乱が続くのだ。朝廷を一つにするべく努力しろ」といい、そのまま目を覚ますことはなかったのです。尊氏５４歳でした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1358年　2代将軍　足利義詮</font>&nbsp;<br />
<br />
1358年とうとう尊氏が死去。息子の義詮が2代将軍となり、細川清氏が補佐役に。清氏は、南朝征伐詮を行い見事成功したのです。再び南朝は窮地に陥りました。が、ここでまた幕府内でトラブル勃発。仁木義長というのが、畠山・細川と対立して南朝へ行っちゃったのです。<br />
<br />
畠山は他の将とうまくやってけない！ってんで、関東へ帰っちゃった。細川清氏はというと、南朝の佐々木導誉と対立して、なんと南朝へ降伏。仁木＆細川という2人の有力武将が南朝へ行っちゃったため南朝は勢いづいて京都を占領してしまったのです。<br />
<br />
この時2代将軍義詮を助けたのは、直義の家臣だった斯波高経。頑張って戦って、京都を取り返し幕府の実権を握るように。その後、斯波VS佐々木が戦い斯波氏の負けこの頃戦功を上げていた安房・讃岐の守護だった細川頼之が後任として管領になったのです。<br />
<br />
※太平記はこの細川頼之が就任するまでの物語です。<br />
<br />
1367年　義詮は病気になり、息子義満を３代将軍に。細川頼之に義満のことを頼むぞ！と言って死去しました。室町幕府において最高権力を持つ将軍義満の誕生です。</p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E8%AA%95%E7%94%9F</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 04:10:47 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>室町幕府と南北朝の乱</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1336年1月10日　尊氏京都へ突入！<br />
<br />
</font>この日、尊氏軍は京都に突入しました。京都を舞台とした大激戦は、各地で目の廻る忙しさで繰り広げられました。後醍醐天皇は比叡山に避難しちゃいました。尊氏にとって一番手ごわかったのが、宇治を守っていた楠木正成でした。<br />
<br />
大激戦の中、尊氏が京都を占領しました。「尊氏京都を制圧。後醍醐天皇比叡山に逃げた」というニュースはたちまち広がりました。もうちょっとで北畠顕家が率いる援軍が来るというのに、みんなさっさかと逃げてしまいました。こうなると楠木正成も支えることはできなくなり、宇治を引き払ったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1336年1月13日　北畠顕家が到着！<br />
<br />
</font>京都を占領した尊氏軍。今度は朝廷軍から京都を守ることに。が、ここで20歳になるかならないかの北畠顕家が朝廷軍の援軍として到着したのです。顕家は若いけど、勇猛果敢な武将でした。尊氏はそれを知っていたため「新田尊氏はたいしたことないだろうけど、顕家がやってきちゃったのはヤバイナ・・・」と思っていたのです。<br />
<br />
顕家は到着するや、すぐさま京都攻撃に移りました。義貞・正成らも一緒になって京都を攻撃！尊氏軍は兵糧止めもされてしまい、連日の合戦で疲れきっていたためイマイチ力が出せずになってしまい、とうとう光井寺の合戦において足利軍が大打撃を受けてしまったのです。戦況は義貞有利に進み始めました。足利軍はなぜか負け癖がついてました。尊氏はここは思い切って一度体勢を立て直すべく九州に落ちることに決めました。この時ノリノリの義貞軍が尊氏を追撃すれば勝てたのに、なぜか追撃しませんでした。太平記ではこの時追撃しなかったのを義貞のせいにしてます。<br />
<br />
どうやら義貞は最愛の美妻である匂当内侍と離れるのがイヤで、追撃するのを延ばしてたらしい。実際のところは「マラリヤ」のような病気にかかったそうです。結果、尊氏は九州で体勢立て直しに成功しちゃうこととなるのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏「オレ、ほんとに天皇が好きだヨ」<br />
<br />
</font>尊氏はこの時も攻撃してくる兵のことを「朝廷軍」「天皇軍」とは言いませんでした。「新田義貞と悪臣たち」という言い方をしてました。尊氏はここにきてもまだ「自分と天皇は本当は理解しあっているし、仲がいい。それを邪魔したりしているのが新田義貞とその仲間達だ。オレはそういうヤツラと戦っているのであって、天皇と戦ってるわけじゃぁない。だからヤツラを官軍とか天皇軍と呼ぶわけにはいかないのさ」と言っていました。<br />
<br />
ある時、赤松則村が「そうはいっても実際世間は尊氏殿のことを逆賊（天皇に逆らうヤツ）と思ってますよ。じゃあ一つ提案ですが、こないだまで院政やってたじゃないですか？その頃は上皇が院宣たくさん出してましたよね？ここはひとつ光厳上皇から義貞を討てという院宣を出してもらえば逆賊イメージがなくなるんじゃないですか？」と提案したのです。光厳上皇は後醍醐天皇は元弘の変を起こした時に、鎌倉幕府が勝手に即位させた天皇でした。<br />
<br />
そのため後醍醐天皇が隠岐島から脱出後、復活して建武の新政をスタートさせた時に「光厳天皇は北条から指名された天皇だから辞めさせる！」と宣言されちゃったのです。光厳天皇が即位した時に、後醍醐天皇は一応譲位させられたんだけど、幕府が勝手にやったってコトで「本当の天皇はオレ様。オレ様がずーっと現天皇なんだヨ！」とばかりに、追い出された光厳天皇。だけどどっかやるわけにも行かないので、一応は「上皇」ということになっていたのです。<br />
<br />
ちなみに系列は持明院統。後醍醐天皇は大覚寺統なのでライバルです。尊氏は光厳上皇にお願いし、「新田義貞を討て」という院宣をゲットしたのです。尊氏は官軍となりました。これによって後醍醐天皇は「尊氏のヤツめ、ついに私の敵である持明院統についたな・・・」と激怒！ここまでくると、いくら尊氏が「オレ、後醍醐天皇スキだよ。」と言っても通用しなくなるのでした。<br />
<br />
対する義貞はこの頃得意満面でした。京都において武功が認められ、各地の武将が義貞に言い寄ってきました。超美女を妻にし、名声もゲット。人生最高の瞬間となっていたのです。&nbsp;<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">軍師　楠木正成　「新田を捨てましょう」&nbsp;<br />
<br />
</font>正成は新政が始まり、尊氏VS義貞の空気が濃くなってくると、義貞と組む事となりました。身分が低いため後醍醐は義貞をボスとし、正成を京都の守備につかせることにしたのです。正成の軍師としての活躍は以後なくなりました。義貞よりも上を行くことは許されなかったのです。正成は義貞を武士として評価していませんでした。むしろ尊氏の方が優れていると考えていたのです。<br />
<br />
「義貞はバカだ。賢い武将なら尊氏が敗走した時に追撃しなければならないのにそれをしなかった。あいつはいっつもそうだ。勝機を見逃してばかり。都にいる間も公家の真似ばかりして酒に溺れ、多くの美女に囲まれて遊んでばかり。成り上がりの田舎武士だ」と常日頃思っていたのです。また正成は武士の名門だの嫡流だのといったものが好きではありませんでした。名門だからという理由で地方武士にありがたがられ、尊敬されるのを馬鹿馬鹿しく思っていたのです。<br />
<br />
正成は身分が低く名門の出ではないため、どんな大功を立ててもたいした恩賞はもらえない立場だったため余計その思いが強かったのです。それでも尊氏のことは認めていたのです。そして正成は軍議の席で、「新田義貞とは手を切り、足利尊氏と手を組んだほうがいい」と意見したのです。公家達は「は？」と呆然としました。「お前はバカか？なんで九州に逃げた尊氏と和睦しなきゃならんのだ？あいつは義貞に敗れて逃げたんだぞ？」と蔑み、笑い出したのです。「いえ、多分九州に逃げてから必ず京都に攻め上ってまいります。」<br />
<br />
「アホか？九州には菊池を始めとした朝廷が命じた国司がいるんだぞ？尊氏なんてそいつらに今頃やられとるわ！」「いいえ、九州の人たちは尊氏の味方をするでしょう。」と、正成が言ったとたん公家連中は大激怒！「お前は九州では朝廷の力より尊氏の方が強いと言うのか？バカにしとるのか？大体朝廷に忠義を持っている新田義貞と手を切れなどと新田殿にも失礼ではないか！お前は自分が恩賞が少なかったので新田殿に妬みの心を持っているんだろ？」<br />
<br />
ここまで言われては正成はもう何も言えなくなってしまいました。すると一人の公家がバカにしながら「では正成殿は、もし尊氏が京都に攻めてきたらどうするおつもりなんじゃ？」と聞きました。正成はマジメに「天皇と義貞は比叡山に退避していただく。そして足利軍を京都市内に入れる。ゲリラ的な市街戦を行い、物資の補給の道を絶やす場所を占領します。秤量もなくなり敵が疲れ始めた時に、比叡山にいる義貞がやってきて、私と義貞とで挟み撃ちする」というものでした。<br />
<br />
まず勝ち目のない戦いにおいて、少しでも勝てるチャンスを見出した作戦でした。敵は多分大人数で勢いがある。京都にはわずかな兵しかいない。と、正成は得意のゲリラ的戦略を意見するも、公家の大反対にあったのです。「京都に兵を入れるのは官軍の恥だ！」に始まり「なぜ撃ってでない？そんなに尊氏軍の人数がいるわけないだろ！？」「天皇が京都を離れて比叡山へ軽々しく行けるか！威信が失われるだろ！」「オレの家が焼かれたらどうする！？よそで戦ってくれ！」「足利が勝ってるのはたまたまだ！」とか・・・。戦ったことのない公家らによって正成の意見は却下されまくったのでした。<br />
<br />
そして最後には「もし万が一尊氏軍が来たならばおぬしが最前線に出ろ。それが本当の忠義というものだろう？」と意地悪く笑ったのでした。正成は、もうこいつらに何を言ってもだめなのだ・・・と思うしかありませんでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1336年　尊氏　九州にて勢力拡大<br />
<br />
</font>九州に下った尊氏は、宗像大宮司（むなかたのだいぐうじ）に迎えられて、本拠地を置きました。九州の武士たちは元寇の時に死に物狂いで防衛したというのに幕府からの恩賞が少なく幕府を見限ったものの、後醍醐天皇による建武の新政にもめちゃくちゃ不満を持っていました。そんな中、尊氏だけが地方武士のために努力してくれていたのを知っていたので、九州・四国・中国地方の武士たちは尊氏に好感を抱いていました。そのため、九州の武士たちは尊氏に協力するべく立ち上がる決心をしたのです。<br />
<br />
楠木正成の考えた通りでした。尊氏は関東に佐竹義敦（よしあつ）、四国に細川定禅ら、石見に上杉憲顕（のりあき）らを送り込み、またも兵を募るよう指示しました。ここで朝廷側である肥後の菊池武敏が戦いを挑んできて、博多湾岸の多々良浜にて合戦となりました。兵が少ししかいない尊氏側は奇跡的に勝利！この戦いをきっかけに情勢が好転していったのです。尊氏は次々と攻めこみ、3月には九州一円を足利一色にしたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">赤松則村　白旗城で時間稼ぎ<br />
<br />
</font>赤松則村は最初は天皇の味方をしていました。功績は大きかったにも関わらず、地方武士だということで領地を貰うどころか減らされ、役職もダウンさせられるというヒドイ目にあった武将でした。不満を持っていた則村は天皇を見限り、尊氏についたのです。そして尊氏が九州に逃げる時に「もう一度京都に攻めに来てください。私が時間稼ぎを致します。その間に九州で準備をしてください」と告げたのです。<br />
<br />
朝廷はまだ赤松則村の裏切りを知りませんでした。新田義貞は赤松に「尊氏を攻めに行け」と命令するも赤松は「私は一応この国の名のある武将ですよ？一応尊氏を討つための天皇の綸旨を貰ってください。そうすれば尊氏を堂々と攻めることができます」と返事したのです。<br />
<br />
義貞は朝廷に連絡しました。が、朝廷は「尊氏は九州で朝廷の国司達にやらてんだろぉ？」と、尊氏をナメきっていたので、尊氏討伐の綸旨を1ヶ月も出しませんでした。新田義貞もみんなにおだてられ京で豪遊三昧の日々・・・。その間に赤松は城旗城を頑丈に作り直してしまい「オレは天皇など信用できん！尊氏殿を信じることにする！」と寝返り宣言をしたのです。義貞は超激怒！妻との離れることにようやく決心がついたのかわかりませんが、やっとこさ兵を出すことに。<br />
<br />
白旗城は1ヶ月の間に防備を整えまくり、水も兵糧も充分蓄えてたためなかなか落ちなかった。2ヶ月以上もかかってしまったのです。尊氏にとっては超ラッキー！この間に菊池も尊氏にやられ、どんどん味方をつけたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">3月10日　朝廷大パニック！えっ！？尊氏が？？<br />
<br />
</font>この日朝廷は1通の書状により大パニックとなりました。書状には「菊池敗死。島津・大友・少弐らは尊氏の味方となり京都へ向かう準備を始めている。」というものでした。朝廷は騒然となりました。楠木正成の言うとおりとなったのです。そしてこの報は京都だけにとどまらず、各地の武士達にも広まり各地で反乱が起き始めたのです。もー朝廷はどうしていいかわかんなくなりました。<br />
<br />
各地の反乱の中でも東北地方の反乱がすごくって、朝廷は北畠顕家に反乱を鎮めるよう命令。これを楠木正成が「今は東北の反乱よりも尊氏を討つことが先決です。ヤツさえいなくなれば各地の反乱は鎮まります。ここで精鋭である北畠殿が東北に行ってしまっては、非常にまずいです！」と大反対。だけど朝廷は「身分の卑しい田舎武士めが！この一大事の時に何を偉そうに！」と、正成の意見を却下し、北畠顕家は東北へ行かされてしまったのです。<br />
<br />
京都に残ったのは新田義貞軍のみとなりました。しかも義貞はまだ白旗城を落とせないでいる。「朝廷はこれまでだ・・・・」正成は一人覚悟を決めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">4月3日　足利尊氏　いざ京都へ！<br />
<br />
</font>尊氏は3月2日に菊池武敏を破り、12日頃には各地の武士へ連絡をしまくりました。が、まだ「私は後醍醐天皇に背いているんではない。新田義貞らを討ちに行くのだ」という気持ちは変わっていませんでした。直義・高師直はほとほと呆れていました。<br />
<br />
4月3日に大宰府を出発し、5月1日に厳島神社にて勝利祈願をしました。尊氏は義貞が中国地方の武士らのハートを掴んじゃったらめんどうなコトになる。白旗城が持ちこたえている間になんとか中国地方に攻めあがらなければ！と思っていたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">5月18日　新田義貞　白旗城を諦める<br />
<br />
</font>白旗城を攻めていた義貞。が、いつまでも落とせずにおりました。そこへ「尊氏が京都へ向かっている」というニュースがやってきたのです。とうとう家臣らが「ここはもうあきらめましょう。ぐずぐずしてると尊氏が今度は中国地方にやってきます。」とアドバイス。義貞は白旗城をあきらめ中国地方へ行くことに。<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900"><br />
<br />
楠木正成　桜井の訣別（わかれ）<br />
<br />
</font>正成は、この戦いで勝ち目がないことがわかっていました。そして桜井という場所で、息子の正行（まさつら・11歳）に、もうこれ以上お供に来なくていいと言ったのです。正行は、父が戦いに出て死ぬつもりだ・・・ということがわかっていたのでで、どうしてもついて行く！と譲らなかった。正成はそんな正行を、泣きながらしかりつけ無理やり帰らせたのです。帰っていく正行の後姿を、涙を流しながら姿が消えるまで見つづけた父・正成でした。<br />
<br />
青葉茂れる桜井の　里のわたりの夕まぐれ　木の下陰に駒とめて　世の行く末をつくづくと　忍ぶ鎧の袖の上に　散るは涙かはた露か　という「桜井の訣別（わかれ）」という歌があります。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">新田義貞の責任じゃーby公家連中&nbsp;<br />
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</font>尊氏は水軍を率いて水路を。弟の直義が陸路を攻めつつやってきました。陸からの直義軍は途中で参加者が続々と増え、莫大な人数となりました。この頃の朝廷は、もう皆ビクビクと震え上がっていました。「公家は政治をやるもんだ！戦いは武士である新田義貞にまかせよう！こうなったのも全て新田殿の責任であろう？」と公家連中は一目散に逃げてしまったのです。さすがの義貞も苦笑い。頼りの名和長年も「私は山陰地方の攻撃に備えるから」と言い逃げ出してしまったのです。義貞は北畠顕家を東北に行かせたことが悔やまれて仕方なかった。<br />
<br />
今となっては楠木正成しか頼る人物がいませんでした。義貞は正成に「どうすればいい？」と相談。正成は「こうなってしまった以上は尊氏の水軍を絶対に陸に上げてはなりません。そして直義率いる陸軍を一の谷付近で潰すしかありません。」と提案しました義貞は「では私は水軍を上陸させないために湊川の和田岬に陣を起きます。義貞殿は陸を守ってください」<br />
<br />
「承知しました。私は湊川に陣を張り陸軍を一の谷に追い込みます。ただし、絶対に水軍を上陸させないよう和田岬だけは必ず死守してください。そうしなければ我が軍は挟み撃ちにあってしまいますから」と、正成は念を押したのです。この頃になると朝廷軍の兵たちはどんどん尊氏に寝返っていました。もはや義貞と正成くらいしか朝廷のために戦う武将はいませんでした。義貞は「今はもう私とあなたしかおりません。絶対にあなたを見捨てません。和田岬は必ず守ります」と言ったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1336年5月25日　　湊川の合戦&nbsp;<br />
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</font>24日ごろ、正成は湊川に陣を置きました。人数は数百人しかおりませんでした。対する尊氏軍は数万人。はじめから勝負はついていました。正成は死ぬ覚悟はできていたのです。義貞は数万人の兵がいました。そして和田岬に陣を置き、一斉に天皇家の旗である「菊水」の旗を立てたのです。尊氏のいる船の上から、義貞と正成の布陣が見えました。尊氏は正成を恐れていたので「正成を孤立させよう」と、作戦を立てたのです。そして「本軍に装った船を東に向かわせろ！さすれば義貞は東へ行くだろう。そして和田岬から上陸するのだ！」と言いました。<br />
<br />
尊氏の作戦通り本軍を装った細川の船が東に移動し始めたのです。東の浜に上陸してしまったら朝廷軍は挟み撃ちになってしまう！そして京に入ってしまう！そう思った義貞は「あの船を上陸させたらまずい！」と馬を東に飛ばし、全軍が義貞に続いたのです。和田岬は空っぽになってしまいました。尊氏のおとり作戦は成功したのです。義貞軍が東へ向かうのが見えた正成はビックリ！「何をやっとんじゃ！死守しろと言っただろ！あれはおとりだ！和田岬を空けてはならぬ！！」と急いで使いを飛ばしました。が、義貞は「本軍が東の浜に上陸しようとしておるのだ！これは阻止しなければならぬ！」と正成の伝言を無視したのです。<br />
<br />
そして尊氏の本陣は和田岬に上陸したのです。正成の兵は完全に孤立してしまいました。だが正成は最後まで勇敢に戦い、数百人の兵で数万人の大軍相手に6時間以上の激闘を繰り広げました。前方は直義軍、背後は尊氏軍と16回もの激戦を繰り返しましたが、数にはさすがに勝てませんでした。夕方5時ごろになると、正成は一軒の民家へ入りました。そして弟の正季（まさすえ）と、自分の一族、家臣ら50人で一斉に自刃したのです。<br />
<br />
おとりに騙された義貞も、さすがに負けたら後がないためこの時は奮闘しまくりました。が、尊氏の大軍はどうにもできず、義貞軍も続々敗走し始め、とうとう義貞も逃げて行ったのです。京では、楠木正成が戦死！新田義貞も敗北！というニュースに後醍醐天皇は慌てて京を捨てて、ひとまず比叡山へ逃げた。ちなみに尊氏は楠木正成の首を見て「正成殿は真の忠臣であった。首は丁重に遺族のもとへ送り届けよ」と言ったのです。<br />
<br />
※楠木正成は「太平記」において大絶賛されています。そして戦前、天皇サマサマの頃「天皇のために忠義を尽くした真の武士」としてヒーローとされるのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">足利尊氏　京都を奪還&nbsp;<br />
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</font>楠木正成を自刃させ、新田義貞を敗走させた尊氏軍は京都に入りました。6月3日　後醍醐天皇が京都を脱出する時に捕らえられていた光厳上皇がなんとか逃げてきて尊氏のもとへやってきました。これにて尊氏は「上皇軍」となり官軍となったのです。直義は早速比叡山の攻撃を始めました。が、後醍醐天皇側も奮闘しまくり。お互いに相手を兵糧攻めにしたりと、頑張り続けたのです。<br />
<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">お互い腹の探り合い&nbsp;<br />
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</font>この兵糧攻めは尊氏の方が分が悪かった。何といっても人数が断然に多いのです。尊氏軍が飢えに苦しんでいるというニュースが広がりました。天皇のもとに敗走していた新田義貞が「今がチャンスです。京都を攻めて奪い返しましょう！」と提案。名和長年も賛成し攻め込みましたがあえなく失敗。すると今度は天皇側が食糧難になってきてしまったのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">8月15日　尊氏　光明天皇を立てる</font>&nbsp;<br />
<br />
尊氏は光厳天皇の弟を天皇として立てました。光明天皇の誕生です。これにて後醍醐天皇は廃されることとなったのです。高師直はこれでも物足りないらしく「後醍醐天皇もう一度隠岐島に流しちゃおうぜ」と言ってました。もちろん後醍醐が好きな尊氏に却下されました。後醍醐天皇側の食糧難はいよいよ深刻になってきました。そうなってくると弱々しい公家連中は「都に戻りたい・・・」と嘆き始めたのです。<br />
<br />
尊氏は光明天皇を立てた後、京の清水寺に願文を捧げました。「この世は夢に候」に始まる有名な尊氏願文です。「この世は夢のようです　尊氏のことを後生お助け下さい　なお一日も早く俗世を捨て隠居して世間のわずらわしさから離れたくて仕方ありません。（出家したいということ）　今後の果報は全て弟の直義にお与え下さい　直義をお守り下さい」という内容です。<br />
<br />
この頃の尊氏はすっかり世の中がイヤになってきていました。本当は後醍醐天皇に逆らいたくないのに周りがそれを許してくれず、自分はいつの間にか武士の棟梁となってしまった。本当に自分がしたかったのはこういうことなのか？などなど悩みまくっていたのです。そのため、世を捨てて仏門の道に入りたいと思うようになってきていたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　和睦をしようとする<br />
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</font>天皇がお気の毒だな・・・と思い始めちゃった尊氏。とうとう「天皇に和睦の使者を送ろう！」と言い出したのです。これには直義・高師直が大反対「なぜこっちが勝ってるのに和睦なんじゃ？降伏の間違いだろ？」とブーブー文句を言うが、和睦和睦！と尊氏に言われとうとう二人は折れました。そして和睦の使者が天皇のもとへ。後醍醐天皇はそれをOKしたのです。もー新田義貞をはじめとする武士連中は大ショック！<br />
<br />
義貞は「オレが行ったら尊氏は絶対に義貞を討て！という綸旨をもらうに決まってる。そして後醍醐天皇もそれをOKするに違いない。後醍醐天皇は息子の護良親王まで売った方だ。信用できるものか！」と考えはじめたのです。義貞の部下達もこれを聞いてカンカン！「今まで命がけで戦ってきた我々を何だと思っているのか！」と激怒しまくり。そして義貞は「では私は北に行き、尊氏を討つ軍を集めます！」と宣言したのです。すると義貞の家臣の一人が天皇に直訴したのです。<br />
<br />
「天皇が京に戻ったら尊氏は必ずや我が主人を攻めます。今まで天皇のために一生懸命命を張ってきた一族とその家臣らを見殺しにするのですかっ！？このまま行かせるわけには行きません。どうか我々と一緒に北へおいで下さい」と言ったのです。困った後醍醐天皇は義貞をなだめるために恒長（つねなが）親王に譲位し、新天皇とさせ、恒長を北国へ連れて行くことを許可した。<br />
<br />
後醍醐天皇はとりあえずうるさい義貞に恒長親王を渡し、ヤツラが北へ行った頃に恒長親王の皇位を取り消すつもりでいました。そして尊氏の立てた光明天皇も辞めさせようと考えていたのです。新田義貞は三種の神器も渡せと言い、恒長親王と三種の神器を持って北へ向かったのです。ちなみにこの時の神器は偽物とのことです。</p>]]>
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    <category>未選択</category>
    <link>http://rekisirekisi11.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%A8%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E3%81%AE%E4%B9%B1</link>
    <pubDate>Fri, 09 May 2008 03:05:31 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>室町幕府と建武の新政</title>
    <description>
    <![CDATA[<p><font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　天皇から名前を一字貰う<br />
<br />
</font>1333年5月　北条高時自害により、鎌倉幕府は滅亡した。6月4日　京都へ戻った天皇はまず尊氏を呼びました。そして自分の名である「尊治（たかはる）」の一字を与え、「尊氏」と名乗らせることに。<br />
<br />
※今まで紛らわしいので尊氏と書いていましたが、この時までは高氏でした。<br />
<br />
尊氏は超感動！「オレ、一字貰っちゃったよ！」と、直義らに興奮して話したんだけど、直義と高師直はかなりシラけ気味。直義は「名前をもらったくらいでばかばかしい。後醍醐天皇はめちゃくちゃ策略家ですよ！？裏があると思うので気をつけてくださいよ！」と忠告。高師直も「そうだ！だいたい尊氏殿は人が良すぎる。後醍醐天皇は今までにも色んな悪巧みをしてた人ですぜ？あまり単純に喜んでばかりはいられないですよ」と忠告。気がいい尊氏は「そうかなぁ？でもオレあの人嫌いじゃないんだけどなぁ。2人ともすぐに人を疑うんだから！」と一人ブツブツ言ってました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1334年　建武の新政スタート<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は早速天皇中心の新政に向けてスタートしました。まず｢関白はおかない！」「今後院政はやらない！」と宣言し、「全て天皇の私が行う！」としたのです。ですが新政を行うには\お金\が必要。後醍醐天皇は北条氏の領地を全部没収しました。そして論功行賞の時、その土地を自分と皇族らで独占してしまい、武士らに恩賞を与えなかったのです。<br />
<br />
ちなみにこの時尊氏29歳　義貞33歳　正成40歳でした。&nbsp;朝廷はなぜ武士にご褒美をあげなかったのか？ 後醍醐天皇はなぜ鎌倉幕府を滅亡させてくれた武士に恩賞をあげなかったのか？それは貴族・公家らに根付いている「公家社会が世の中の中心で一般庶民はオレらに奉仕してりゃいいのさ」という気持ちからでした。<br />
<br />
そもそも公家らは武士を軽侮しまくっていました。さらに武士の中でも身分や地位にかなりこだわっていました。尊氏・義貞・正成の3人の恩賞も、最初っから最後まで朝廷のために戦い続けた正成がめちゃくちゃ恩賞が少なかった。功があっても元々の身分が低いのでたいした恩賞をもらえなかったのです。<br />
<br />
結論からいうと、この論功行賞は大失敗でした。150年間も政治から離れていた朝廷がいきなり政権を握ったんだから当然かもしれませんが、後醍醐天皇が人生の大部分を賭けてやっとこさ実現した天皇の政治が、数年でガタガタになった原因はこの論功行賞にあるのです。<br />
<br />
そもそも鎌倉幕府が滅んだのも「恩賞の不平」でした。蒙古襲来の時に御家人に領地を与えることができなかったのが原因。だからこそ、後醍醐天皇が立ち上がった時に数多くの御家人が幕府を背いて戦ってくれた。武士らは恩賞として領地が欲しい。ただそれだけだったのです。<br />
<br />
ところが幕府はせっかくゲットした北条氏の領地を武士にはあげずに、まず天皇&rarr;皇族&rarr;公家の順番で分け与え、余った領地を蹴鞠がうまい者・白拍子・遊芸の巧みな者・官女・僧侶・さらには朝廷御用達の遊女といった人々にあげてしまい、武士にあげる分がなくなっちゃったのです。これじゃあ武士が怒るのは当たり前。<br />
<br />
ですが朝廷の考えは全く違うものでした。北畠親房という公家の超一流の学者でさえ「北条高時が滅んで天皇の運が開けたのは武士どものおかげではなく、神の意思である。だいたい武士というのは朝廷の敵である。朝廷の味方をしただけでお前らの家を滅ぼさないだけでも感謝するべきである。<br />
<br />
もし恩賞を望むのであれば、これからも朝廷に仕えるべきであり、神の意思によって成り得た天皇の政治を武士らの功と思うなどずうずうしいにも程がある！」と超一流の学者までもが武士をバカにしくさっており、これが当時の公家社会の共通した気持ちだったのです。<br />
<br />
公家一般論として「この国の正統な支配者は天皇である！よって天皇の仕えている公家らが最も尊い者なのであーる」というのが当たり前のことだったのです。ですから死に物狂いで戦った武士らをほったらかしにして、自分達が領地をゲットするのはごく当然で、遊女や遊芸のうまい人たちにも所領をあげるのもいけないこととは全く思わなかったのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">武士の不満がたまりはじめる<br />
<br />
</font>新政は始めから武士にとって不満タラタラのものとなりました。土地は全て天皇家のモノだよーんと、武士にはあげなかった。赤松則村なんて、もともと守護だったのに「ご褒美」てことで、なぜか荘園の管理人に格下げというわけのわかんないご褒美に。尊氏かかろうじて武蔵・相模・伊豆を所領にもらい、新田義貞は播磨と上野。<br />
<br />
楠木正成は河内守という役職だけ。尊氏と義貞は武士としてまだ恩賞としてはいいものをもらったけど、楠木正成は全然いい恩賞がありませんでした。円観（えんかん）ら、後醍醐天皇に可愛がられていた僧も、島流しされてたトコを京都に呼び戻されて、エコヒイキされまくりお金貯まりまくり。武士達の不満はつのりまくり。<br />
<br />
恩賞は、皇族・公家・寺院の順番で配られ、武士は3ヶ月以上も遅れた上に少なかった。幕府を倒したのは武士なのに、京都でのほほんとしてた公家や皇族が褒美が多いのはずるい！と武士は怒りまくり。やっぱ、朝廷はダメだ！と、思い始めようになってきたのです。<br />
<br />
多くの地方武士たちが「オレは○○で、○○ってヤツを殺しましたよ！」と京都に申し立てにくるように。が、当時の武士は教養がないため、ただ土地が欲しいが為の欲望むき出しでわめきまくった。京の人々は「なんて浅ましいのかしら」とか「みっともないわぁ」と武士をますます蔑むように。<br />
<br />
尊氏・直義らはそういう武士達を気の毒に思うように。教養のない武士たちは単純なのです。単純な武士を騙した朝廷が悪いよなぁ・・と考えるように。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏を征夷大将軍にしろー！<br />
<br />
</font>尊氏は武士の恩賞があまりにも少ないのを同情しまくっていました。武士の方も次第に自分たちの代表者として、天皇に認められて一番多く恩賞を貰った武士である尊氏に期待を寄せるようになってきました。尊氏なら自分達の気持ちをわかってくれ、代弁してくれるだろうと思うようになってきたのです。まさに武士の期待の星でした。<br />
<br />
そしてその期待は「尊氏を征夷大将軍に！」という声になってきたのです。直義も高師直もこの動きには大賛成！そんな動きを苦々しく思っていたのが後醍醐天皇の息子　護良親王だったのです。護良親王は以前から尊氏が武士にめちゃくちゃ人気があるのを「危ないな・・・」と感じていたのでした。ちなみに尊氏は鎮守府将軍（ちんじゅふ）という東北地方を治める鎮守府という軍の長官みたいなものに任命されました。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐悩む　護良親王なんで機嫌悪いかなぁ？<br />
<br />
</font>実は後醍醐天皇が隠岐を脱出して１年ぶりに京都にやってきた時、護良親王は山にこもって動こうとはしませんでした。後醍醐天皇は、会ったら最大級のねぎらいの言葉をかけなきゃ！と思ってたのに、アイツ何故来ないんだ？と不思議でした。後醍醐は大好きな廉子に相談<br />
<br />
「なんで護良はオレ子のとこに来ないんだと思う？」「護良には大きな望みがあるんだと思いますわよ」「それは何だろうか？」「護良は一度僧の道に入ったのを還俗されたお人。世の中が静まったらもう一度仏門に戻れと言ってごらんあそばぜ♪」ふーん・・・と後醍醐は廉子の言ったとおり使いを行かせました。<br />
<br />
護良はその言葉を聞き「このオレにまた坊主になれというのか！？オレがこの２年の間血を流しまくって戦った苦労を何だと思っとんじゃ！？だいたい主である父上のために忠誠を尽くして戦ったのはおれらと楠木一族だけじゃねーか！他のヤツラは土壇場で寝返っただけじゃねーか足利尊氏なんて最後の最後に活躍しただけで、鎮守府将軍なんかになりやがって！あいつは第二の北条高時じゃぁ！あいつが鎮守府将軍ならオレは征夷大将軍じゃなきゃ京都へ帰らんぞ！」と激怒しちゃったのです。<br />
<br />
護良は父の後醍醐天皇が大好きでした。征夷大将軍になりたいってのは自らの野望ではなく、尊氏の野望を押さえ込み、天皇家のために頑張りたいと思ったからなのです。ですが後醍醐天皇は・・・「護良が征夷大将軍になりたいだと？廉子どう思う？？」「やはり・・・。ワタクシの思った通りですわね」「そなたが申した護良の大望とはこのことか？」「征夷大将軍は大望のステップですわ。護良は自分の子供を皇太子にして自らは上皇となり院政をしたいのですわ」<br />
<br />
「何を言っておる！あいつはまだ皇位もついていないというのに！それにワシはあいつを皇太子にしようとは思っておらん！」「ではどなたを・・・？」「わかっとるだろ？お前との間に生まれた恒良だよ。隠岐までついてきてくれたそなたが生んでくれた子であるぞ」と、こんな調子で、後醍醐天皇は廉子にメロメロだったのです。そのため護良の気持ちは全く通じずにいました。後醍醐はとりえあず護良は皇太子にはさせない。<br />
<br />
だけど、頑張ってくれたから征夷大将軍にはしてあげてもいいな。今武士達がしきりに尊氏を征夷大将軍にしろ！と騒いでるけど、護良ならオレの息子だってことで格好もつくだろ。尊氏を牽制させるのにもちょうどいいし・・・と考え、廉子が護良を征夷大将軍にしてもいいってのをOKしてくれたので、護良の希望通り征夷大将軍に任命しました。護良は大喜びし、京都に戻ってきたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">阿野廉子　賄賂もらいまくり<br />
<br />
</font>後醍醐天皇を島から脱出させた廉子は、鎌倉幕府滅亡の立役者として発言力を増していきました。そして廉子の天皇への影響力を感じ取っていた貴族達は廉子に贈り物をしまくりました。なんせ賄賂を贈んないといい恩賞をもらえないもんだから、みんな廉子に賄賂を贈りまくり。<br />
<br />
また自分の悪口を言った者には「あんたはアタシの悪口言ったから恩賞あげないから」と言ったりワガママ言いたい放題。武士の中にも賄賂を贈った者がいましたが、廉子は武士だからテキトーでいいか！と、賄賂をくれた武士の土地を間違って他の人にあげちゃったりしたので（ダブルブッキング）怒った武士が廉子に文句を言いに行くと「じゃあその土地を力ずくで取っちゃいなさいヨ！」とまで言ったりして武士達は大混乱。さらに政治を大混乱させた廉子。これも武士の不満を募らせる結果となったのです。<br />
<br />
さらに島流しされてた文観も賄賂貰いまくり。家中宝物だらけとなり、その財宝を守る為に沢山の武士を雇い、犬のようにこき使いました。その数500人以上となり、「僧に犬の様にこき使われて恥ずかしい」と怒り始めたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">次から次へと武士を怒らせる後醍醐天皇<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は「御家人」という称号を廃止しました。幕府がなくなったんだからそんな称号いらんだろ？ってことで廃止となったんですが、長い間一般庶民と区別するために地主の身分を示す称号となっていたので、廃止するならするで代わりの称号を与えればいいのに、それさえも与えずいきなり廃止にしちゃったもんだから、不満は募りまくりました。<br />
<br />
さらに後醍醐天皇は朝廷が派遣した「国司」の権限を強くしました。土着していた武士である守護や地頭は押さえつけられまくり。「国司」には数少ない武士が任命され、ほとんどが下級の貧乏公家でした。その貧乏公家は「国司」でありながらその土地には行かず、突然お金持ち生活になったので京都に住んで遊びまくり。<br />
<br />
自分の業務代行として貧乏時代に親しくしていたヤクザ系の人々にオマカセしちゃったのです。弱っちいのに任せたら反発があるだろうってことで、強そうなのに代行させたのです。突然「国司代行じゃー！」と、そんなヤクザまがいのヤツラに偉そうにされちゃったら反発が起きないわけがない。とにかく後醍醐天皇は次から次へと武士の不満がたまるようなコトばっか、わざとじゃねーの？と言いたくなるくらい推し進めてきたのです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">武士たちのつぶやき・・・昔の方がよかった・・・<br />
<br />
</font>武士達が幕府を懐かしく思うようになってきたのは当然のことでした。「高時殿の頃もむかついてたけど、今より全然マシだったのー」と思うように。武士達は北条政治に愛想をつかして後醍醐天皇の呼びかけに応じて北条をやっつけたものの、今更幕府は良かった・・・と「武士」を守ってくれるシステムであった鎌倉幕府を潰しちゃったことを後悔しまくるようになってきたのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">武士連中期待の星　足利尊氏&nbsp;<br />
<br />
</font>そんな武士達の不満のより所が足利尊氏でした。何といっても尊氏は源氏の棟梁なのです。このような空気を敏感にキャッチしてるのは尊氏のブレーンの2人。弟の直義と重臣の高師直でした。武士らの心をつなぎとめるために何かしらの手立てをしていたそうです。また、武士達も自分達の親分的存在が欲しいので、源氏の嫡流である名門・尊氏に期待しまくった。<br />
<br />
そして後醍醐天皇もそんな尊氏に危険を感じるようになってくるのです。後醍醐天皇は尊氏のご機嫌を取るために官位を与えまくった。超一流（笑）学者の北畠親房は「こないだ四位になったかと思えば、そのお礼もしてないうちに従二位になりやがった。弟の直義までもが従四位になっちゃった。いくら源氏一門とはいえ頼朝＆実朝の時代に足利家なんて親族扱いもされてなかったじゃねーか！後醍醐天皇は何でそんなに取り立てるのか？怪しい・・・」と言うほどでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">流行語大賞「バサラ」誕生！<br />
<br />
</font>この頃、「バサラ」と呼ばれる人たちがデビューしました。バサラとはサンスクリット語の「ヴァジャラ」を言語とするもので、いかなるものも砕く武器というような意味です。この頃のバサラとは、派手にふるまい贅沢三昧しまくる・・・という、とにかく人目も気にせず自分のやりたいことをやるぜ！というもの。バサラと呼ばれる人たちが多く誕生し、建武式目という幕府から出てる法律みたいなものにも書かれるほど「このごろバサラと言う驚くことばっかやるヤツラが出てきた。ちょっとは厳粛しなさいよ」と書かれた代表的なバサラは高師直ブラザーズ・佐々木道誉（ささきどうよ）・土肥頼遠などです。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">直義　鎌倉へ<br />
<br />
</font>後醍醐天皇は護良親王を征夷大将軍にすると、続いて自分の皇子達を日本各地の「将軍」に任命しました。成良（なりなが）親王が鎌倉将軍に任命され、その親王を助ける補佐役として直義が選ばれました。（尊氏が強くプッシュした）鎌倉は武士が腰を下ろすのにもっとも適した場所だからです。が、この人選に護良親王が大反対！高師直は「あいつほんっとうるせえな！いつか殺さなきゃやべぇな」と感じるように。<br />
<br />
ですがいくら護良が反対しても、尊氏の推薦を突っぱねるのも出来ないしなぁーと、後醍醐天皇は直義を選んだのです。直義は出発の日、「くれぐれも後醍醐天皇に騙されないように！」と尊氏に念を押したのでした。<br />
<br />
この頃の直義の考えは「新政には武士の座る椅子がまったくないな。このような武士に対するやり方では、いつか武士達は必ず爆発する。私はその前に鎌倉へ行き、武士のための基盤を作らなければ。天皇は京都で公家らをまとめてればいいのだ。足利が鎌倉で武士を統率すればいい」というものでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏　武者奉行所を作っちゃった<br />
<br />
</font>地方武士が京都に溢れまくっていたので、尊氏は六波羅を「武者奉行所」として地方武士の苦情を聞くことに。そして彼らが訴える勲功を「よし！オレが保証人になってやるよ！」と署名捺印をしまくりました。この署名捺印は武士にとって大きな効果がありました。<br />
<br />
何といっても天皇から名前を貰った「尊氏」の印なので、朝廷は仕方なく署名捺印の書類を持ってきた武士らに恩賞を与えざるを得なくなったのです。そのため朝廷が設けた正式な恩賞の窓口には誰も行かなくなりました。どうせ行ったって適当に「あぁ・・・うん・そうだなぁ・・・」などの口ぐるまに乗せなれるだけだったら、尊氏がやってる個人的な奉行所に行ったほうがいいぜ！ということになってきたのです。とにかく尊氏が証明さえすれば、朝廷は動いてくれる。武士達はますます尊氏を尊敬するように。さらに武士達が都で待ってる間の生活費の面倒を自分のポケマネで出してあげたり。<br />
<br />
夢窓疎石（むそうそせき）という天皇の信頼厚い僧は「尊氏は戦場では誰よりも勇敢だけど、普段は心が優しいやつよのぉ。自分の財産を惜しみなく人に与えてしまう、徳のある人物じゃなぁ」と感心したそうです。それを見ていた護良親王は「頭の悪い武士達を恩賞で釣りやがって！」と、ますます尊氏に敵意を持つのです。が、そう思っているのは護良だけではありませんでした。同じ武士である新田義貞も「オレだって源氏の嫡流だっつーのに、なぜあいつのとこばっか皆行くんだよ！幕府を滅ぼしたのはオレだっつーのに恩賞もオレよりヤツのほうが良かったし！」と尊氏にますます敵意を持つのでした。<br />
<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">尊氏「オレ、なんか悪いコトしたかなぁ？」<br />
<br />
</font>護良親王の考えは「新政とは天皇の新政だ！天皇を補佐するのは皇族と公家だけだ！武士など一切関係ない！武士とは皇族や公家にとって犬だ犬とは上の者にこき使われるモノだ！」と考えている人でした。そのため武士である尊氏を征夷大将軍になんてとんでもないぜ！と思っていました。御所内で尊氏と顔を会わせてもひたすら無視。「お前のような卑しい者とすれ違うだけでも汚らわしい」というオーラがありありと出ていました。<br />
<br />
尊氏は武士とはいっても教養はある。根は優しく繊細だし、心配りもできる人でした。教養の部分でも文学・宗教・歌とあらゆる点で公家には劣るところはなかった。それでも「武士」というだけで、護良からしてみれば「人間ではない」のでした。尊氏は、直義は高師直にいっつも相談。「オレさぁ、まったく悪いことしてないのに、なんで護良親王はオレのこと嫌いなのかなぁ？」と気弱な尊氏は悩んでいました。<br />
<br />
直義は「あの人は兄さんが嫌いなんじゃなくって武士が嫌いなんですよ。あの人だけじゃなく北畠親房とかあの辺の取り巻きはみーんな同じ思いですよ。いくら兄さんが天皇の信任が厚いといっても、絶対に朝廷の人間には気を許しちゃいけません」と言いました。高師直なんかは「あのバカどもは自分達では何にもできないクセに、人を蹴落とすこととかだけはピカイチだぜ？気をつけたほうがいいぞ」と言いました。だけど尊氏は「お前達はいーっつも裏ばかり見て人を信じようとしないんだなぁ。オレは結構天皇のこと信じてるんだけどな」と言い、直義・高師直は苦笑いしっぱなしでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">護良親王「尊氏殺していいすか？」<br />
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</font>護良は尊氏を批判しまくりでした。武士の統率者としてふるまっているのが気に入らなかったのです。尊氏より上の「征夷大将軍」を何とかゲットし、喜び勇んで京都へ帰ってきたものの、護良には居場所がなかった。というのも尊氏が京都で「鎮守府将軍」としてすでに武士の心をゲットしていたし、護良がやろうとしていることは全て尊氏がやっちゃうのでした。さらに追い討ちをかけるように後醍醐天皇は大好きな廉子の子供達をつぎつぎと登用しだしたのです。<br />
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長男の恒良親王は皇太子に任命されちゃうし、次男の義良親王は陸奥で鎮守府将軍に任命されるし、三男の成良親王は８歳だっつーのに鎌倉で一番エライ「征夷将軍」に任命されるし、ついでに大嫌いな尊氏の弟直義が鎌倉の執権になっちゃうし。護良は「これは尊氏と廉子が共謀して父にお願いしているのだな。それにしても父上も何故黙って言うとおりになっちゃってんだヨ！」と恨めしく思うように。実際尊氏は廉子が自分の子供を出世させたい！とアレコレ画策しているのを素直に協力していました。<br />
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そして護良は後醍醐に「尊氏は危ないです！奉行所で地方武士の不平不満を聞くフリをして、新政への反抗心を煽ってます！今のうちにあいつを何とかしなきゃ新政の妨げになります！」と訴えたのです。後醍醐は「ワシも同じ考えじゃ。尊氏が六波羅に奉行所をおいたと聞いたときから、ヤツは野心があると思っていた。だがヤツは武士の間で大人気だろう？だからわざと官位をあげて油断させておったのじゃ。そちがそのつもりなら、密かに兵を集めヤツを殺せ！」と命令したのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1334年10月　護良（もりなが）親王事件<br />
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</font>後醍醐天皇に尊氏を殺していいぞっていう許可をもらった護良親王は、密かに諸国の武士らに令旨を送りました。ところで、尊氏の軍は京都の治安も守っていました。「京都の住民に迷惑をかけるな」というのが尊氏のポリシーで、京都に住んでいる人々の金品を盗んだり乱暴したりする人をビシビシ取り締まっていたのです。ですが、「武士のくせに偉そうにしやがって！」と、奢り高ぶった公家の家臣らは、それに反抗するように掠奪をしたりしていました。<br />
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ある日、尊氏の部下がそういう一人を捕まえました。すると「オレは殿法印様の家臣だぞ！無礼者め！」と逆ギレ。尊氏の部下らは「誰の家臣であろうと関係ない」と引っ立てようとしました。すると「うるせぇ！殿法印様は護良親王の友達だぞ！犬のようなお前らが公家を捕らえるなんて許さんぞ！」とギャーギャー騒いだ時に、懐から一通の書状を落としてしまったのです。それは「謀反人足利尊氏を討て」という護良親王が全国の武士に宛てた令旨だったのです。<br />
<br />
それを聞いた尊氏はさすがに激怒し、後醍醐天皇に「息子の護良親王が私を討とうという計画をしてますよ！天皇はご存知だったのですか！？」と直訴に行きました。後醍醐天皇は「知らぬ」と首を振りました。そこで廉子も「ほらね。わたくしが申し上げた通り護良親王は野心を抱きまくっているのですわ。いかがいたします？」と援護射撃。廉子は最近護良が活躍しまくってて「次の天皇は護良親王の方がいいんじゃないか？」と世間が騒いでるのが気に入りませんでした。護王さえいなければ、自分の息子は安泰だわ！と考えていたのです。<br />
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廉子の言うことは何でも聞いちゃう後醍醐天皇は「けしからん！護良を捕らえよ」と言ったのです。とはいっても、片腕として頑張ってきてくれた護良親王を失うのはダメージが大きかった。ですが令旨という証拠がある以上、どうにもならなかったのです。それから３日後の１０月２２日。歌の会を開くからと後醍醐に誘われた護良は何も知らずにノコノコと出かけてきました。そこへ屈強の侍がやってきて「天皇の命令でございます」と、唖然としている護良を捕らえたのです。<br />
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罪は「諸国へ令旨を出し兵を挙兵し帝位を奪い取ろうとしている」というものでした。護良はそれを知って大ショック。まさか父が自分を売るとは思っていなかったのです。護良の近臣３０人以上も捕らえられ処刑されてしまいました。「オレの家来達は幕府を倒すために一生懸命戦い、やっと京都へ帰ってこれたと思ったら何も楽しまないうちにこんな目にあうとは・・」と悔し涙を流しました。護良親王は捕らえられた後、直義に引き渡されました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">護良親王の土牢生活<br />
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</font>直義は自分の任地である鎌倉に連れて行き土牢に幽閉したのです。ここで護良は父宛てに手紙を書きまくりました。が、その手紙は全て握りつぶされ後醍醐の目に触れることはなかったのです。<br />
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※「梅松論」によると、土牢ではないとあります。<br />
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護良親王のおつきの者は南の御方という寵愛していた上臈女房ただ一人でした。密室での生活はただただ悔し涙を流すばかり。「尊氏・直義兄弟よりも父上がうらめしい」と後醍醐天皇を恨みまくる毎日。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">建武の新政　大混乱<br />
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</font>ただでさえ京都は大混乱してるというのに、さらに、皇居を作り直すってことで、全国の園にお金を出させ、武士達にも収入の２０分の１を税金として取った。さらに貴族の借金を帳消しにしてしまったのです。また地方武士の恩賞も相変わらず混乱しており、阿野廉子の口出しにより余計めちゃくちゃになっていた。恩賞係りだった万理小路藤房は、天皇に「頼むから廉子に口出ししないように言ってください」と訴えたが、コレを聞いた廉子が激怒！「なぁんですって！なんて無礼な！藤房をクビにしてちょうだい！」と言ったもんだから、藤房は都を追い出されてしまったりと、もうめちゃくちゃだった。<br />
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尊氏の軍がいくら治安を守るよう努力しても、もはや京都はどうすることもできないほど混乱していたのです。そして京都の二条河原に掲げられた落書（風刺や批判）には、「このごろ都に流行るもの。夜討・強盗・にせ天皇命令・召人（めしうど・囚人のこと）馬・空騒ぎ・生首・にわか大名etc・・・」と、建武の新政の混乱ぶりばっか書いてあった。次第に「新政はいつまで続くのか・・・」と人々はいい始め、「尊氏なし」という言葉が流行語に。<br />
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尊氏なしとは「徳と人望があり、人気の高い尊氏が、朝廷の正式な役人として全く名が出ていない」という意味でした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1335年7月　中先代の乱　護良親王　斬られる<br />
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</font>1335年に北条高時の息子、時行が「幕府再興」をはかって、「もう一度武士の世に戻そう！オレがもし天下を取ったら武士中心の政府を作る！」と、信濃で兵をあげました。不満を持っていた武士達は喜びの声を上げました。中先代の乱とは、先代は高時・後代は尊氏なので、中をとって中先代の乱。時行のバックアップは長野の諏訪氏。<br />
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この挙兵計画は、まず後醍醐天皇を殺し、時行が信濃で挙兵。高時の弟である時興が近畿で挙兵。北条（名越）時兼が北陸で一斉に立ち上がるというものでした。が、この計画は漏れてしまったのです。京都にいた主だった一味が逮捕となり、逮捕を免れた者が信濃の時行のところへ行って慌てて時行が挙兵したのでした。武士達は「今の朝廷よりこっちの方がいいぜ！」と応援に駆けつけ、名越時兼の兵も挙兵し、一気に鎌倉まで迫ったのです。鎌倉にいた尊氏の弟の直義は、こりゃ勝ち目なさそうじゃと早々と逃げました。が、この時、護良親王のコトを思い出しました「あいつを生かしておいたら、怨恨を晴らすべく北条の味方をするかもしれん。足利家のためにならんな」と家臣の淵辺義博に殺して来いと命令しました。<br />
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そして淵辺は護良親王のもとへ行き「戦乱が始まるのでここを立ち退くべくお迎えにあがりました」と言ったところ、護良親王は「おのれはワシを殺しに来たのであろう！」と淵辺に襲い掛かったのです。護良親王は武芸に優れていましたが、半年もの土牢生活で座りっぱなしが多かったため体がいうことを効かず、淵辺に押さえ込まれ首を斬られそうになりました。<br />
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護良はよほど無念だったのが、首をちぢめて刀に噛みついたのです。刀の先が折れてしまい淵辺は脇差を抜いて胸を二度刺した後、首を斬ったのです。その時の護良親王の顔は刀の先を口にくわえたまま目をカッと見開き凄まじい形相だったそうです。淵辺は「このような恐ろしい首は直義殿に見せることはできん！」と藪の中に投げ捨てました。護良親王２８歳の悲惨な最期でした。そして時行の軍は鎌倉へ入り、鎌倉を奪うことに成功しました。今まで潜伏していた北条の残党も集まり、一時的に幕府が再興されたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷愕然・・・どうする？？<br />
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</font>朝廷は幕府が時行に奪い返されたと聞いて大混乱。とりあえず誰かを征夷大将軍にして幕府をやっつけに行かせなきゃ！ってコトになりました。この時足利尊氏が「オレを征夷大将軍にして鎌倉に行かせてくれ」とお願いしたんだけど、後醍醐天皇に却下されました。<br />
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後醍醐天皇は「尊氏を征夷大将軍にして鎌倉に行かせたら、こいつは絶対そのまま居座って幕府を開くに決まってる！」と考えたのです。そして再三尊氏がお願いするも断り続け、8月1日に突如として成良親王を征夷大将軍として鎌倉に行かせることにしたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1335年8月2日　尊氏　勝手に鎌倉へ向かう&nbsp;<br />
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</font>この決定にさすがにショックを受けたのは尊氏。高師直に「オレが征夷大将軍になって直義を助けに行く！」と話すと、高師直も「それは結構なことです。直義殿がいなくても独りでよくぞ決心しました。それでこそ源氏の棟梁です」と褒めてあげました。そして成良親王が征夷大将軍に任命された翌日、なんと「天下のためであります」という届出をして勝手に鎌倉へ兵を出してしまったのです。<br />
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尊氏からしてみれば「オレは一応武士だよ？乱が起こったのはオレの分国だよ？しかもヤラレてるのはオレの弟だよ？それがあんなお坊ちゃん成良を征夷大将軍なんかに命じやがって！これで万が一成良が乱を平定しちゃったら武人としてのオレの顔は丸つぶれじゃんヨ！」というものでした。<br />
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朝廷は尊氏が勝手に鎌倉に行っちゃったのに腹たてまくり。だけど止める術をもたないのでそのままにしちゃいました。最初尊氏は500騎だったんだけど、尊氏大好きな武士らがドンドンついていき三万騎以上に膨れ上がりました。北条方も尊氏挙兵を聞き、浜名湖湖畔で足利軍を待ち受けました。存亡が賭かっている北条方はめちゃくちゃ強く、兵の数は全然少ないのに30日以上も激戦を繰り返しました。<br />
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敗れては挑み・・・の繰り返しで、鎌倉に着くまでに１５回もの戦いを繰り返し、全滅になるまで抵抗しまくりました。最後は残った４３人が切腹をして、この戦いは終わったのです。残った４３人の顔は全て顔の皮をはぎ、誰が誰だかわからないようにしてありました。総大将の時行もその中にいるだろうと思われましたが、実は逃げてました。こうして北条時行の乱は平定されました。鎌倉を占領してからわずか２３日でありました。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">大義名分にこだわる朝廷<br />
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</font>朝廷では慌てて尊氏を征夷大将軍に任命しました。なぜか？というと「大義名分」のためであります。無断で立ち去られたのではなく、朝廷から派遣したということにして朝廷の面目を保つためでありました。もし負けたのであれば、責任を尊氏に擦り付けて失脚させることもできたんだけど、勝っちゃったからには叱ることもできないし、かといって黙ってることもできない。<br />
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こうなったら征夷大将軍に任命して朝廷から派遣したってことにするしか面目を保つ方法はないな・・というものでした。周りの公家連中は「尊氏は勝手に征夷大将軍を名乗った！あいつは謀反人だ！」と、尊氏を謀反人呼ばわりし、尊氏を討伐しようと騒ぎ出しました。さらに新田義貞も出てきて｢私に尊氏と時行を討伐する綸旨を出してください」と言って来たのです。<br />
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後醍醐天皇はギャーギャー騒ぐ公家らを苦々しく思うように。「バカどもめ！尊氏の実力がわかっとらんのか！？今アイツを謀反人にしてしまったら、北条時行と連合しちゃうかもしれねーじゃねーか！そうなったら新政府軍などひとたまりもないではないか」けど、後醍醐天皇はそんなこと声を大にして言うことは出来ませんでした。<br />
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朝廷はプライドだけは高いんだけど、実力が全くなかったのです。天皇である後醍醐天皇が朝廷よりも武士の方が強いってなコトを言っちゃったら大変なことになっちゃうからです。後醍醐天皇は周りの意見を抑え、尊氏を征夷大将軍に任命したのです<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">朝廷カンカン！尊氏京都に帰ってこい！<br />
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</font>尊氏は鎌倉に入ると兵らに勝手に恩賞を与えました。尊氏は自分の判断で武士に土地を与えることを悪いこととは思っていませんでした。かつて源頼朝がそうしたため「オレは頼朝殿と同じコトをしているにすぎない」と考えていたのです。大嫌いな新田義貞の所領も勝手にあげちゃいました。新田義貞はカンカン！<br />
<br />
ところが朝廷の考えはそうではありませんでした。土地は全て天皇のモノなのです。それを分け与えるの事ができるのは天皇だけだ！というのが建武の新政の考え方なのです。尊氏が勝手に恩賞を与えてるというのは、朝廷からしてみれば明らかに反逆行為でした。そして朝廷は使者を出し「恩賞は朝廷にて行うべき！尊氏が与えた土地は一度白紙に戻せ！早く京都に戻ってこられよ」と言いました。お坊ちゃまの尊氏はうわぁーしまった。まずかったのかなぁと弱気になり「かしこまりました。急いで帰ります」と返事しちゃいました。<br />
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だけど直義や高師直が「何ノコノコ帰ろうとしてんですか！これは絶対天皇の陰謀ですよ！もし今京都に戻ったら絶対に殺される」と何度も何度も尊氏を説得したのです。はっきりいって尊氏はお人よしのお坊ちゃまでした。弟の直義の方が全然政治情勢に敏感で優れていました。尊氏はこの時のことも「天皇は悪くない。悪いのは天皇を取り囲む側近達だ。得にオレの事嫌いな新田義貞あたりが色々とそそのかしてるに違いない」と思っていたのです。そして尊氏は直義に説得され、京都に戻ることをやめました。これにて後醍醐天皇との対立は決定的になったのです。<br />
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さらに尊氏は源頼朝の屋敷あとに自分の新居を作りました。さらに高師直などの重臣らの家もキレーに建て直し。尊氏には「源氏の棟梁」という意識がめちゃくちゃありました。そのため頼朝の後継者きどりで鎌倉にて政務を行い始めちゃったのです。こういうコトをやるようにアドバイスしたのは弟の直義らしいです。尊氏にはそんなことできる能力があまりなかったらしい。だから危険だっつー京都にノンキに帰ろうとしてたんだしね。ということで、直義という右腕は「今、ここで兄に采配をふるわせなければ、先祖代々の野望を達することはできない！この機会を逃してはならない！」という思いで、尊氏をお膳立てしたのでした。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">後醍醐天皇　義貞大事にしちゃうもーん<br />
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</font>尊氏が京都に戻らず鎌倉にて将軍気取りになっているというニュースを聞いた後醍醐天皇はカンカン！「あいつめ・・・どうしてくれようか！」と常日頃考えていましたが、思いついたのが新田義貞を起用することでした。義貞は鎌倉を滅ぼした立役者であるにもかかわらず、尊氏の息子千寿丸（義詮）も鎌倉に行ったことにより、千寿丸に人気をかっさらわれムカムカしていました。後醍醐天皇は尊氏に危険を感じていましたが、対抗する武力は全くない。そこで後醍醐考えた。<br />
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「全国の武士の中で唯一尊氏に対抗できそうなのは義貞しかいないよなぁ。実力は尊氏より劣るけど、家柄が家柄だしなぁ。楠木正成もいいんだけど家柄悪いしなぁ。仕方ない！義貞を重宝することにしよう。官位も尊氏と同じくらいあげて2人を牽制させよう」ということに。<br />
<br />
後醍醐天皇はまず義貞に匂当内侍（こうとうのないし）という超美人の女房を与えました。田舎武士だった義貞は朝廷の洗練された美女にメロメロ。後醍醐天皇の懐柔策は大成功したのです。いつの間にか尊氏は武士軍のボス。そして義貞は新政派の武士軍のボスとなっていきました。義貞が尊氏を嫌いだという気持ちを利用して、自分の味方に引き入れていったのでした。義貞の方も尊氏が大嫌いだったので後醍醐天皇の忠臣NO1の座を獲得することに躍起になっていくのでした。<br />
<br />
そこへ尊氏が義貞の所領を勝手に武士らに与えているというニュースが。怒った義貞は「そっちがそうならこっちだって！」と足利一族の所領を取り上げちゃいました。そしてお互い朝廷に「あいつを討伐したい！」という申し出をしたのです、朝廷は義貞の方にOKを出しました。ちょうどこの頃南の御方が護良親王が殺されたという情報を持ち帰ってきていたのです。後醍醐天皇は義貞の申し出を受け「尊氏討伐」を命じたのでした。<br />
<br />
<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900"><br />
尊氏を朝敵とする理由は<br />
</font><br />
①弟の直義が護良親王を暗殺したこと<br />
②尊氏は天皇の許可を得ずに土地を分け与えたこと<br />
<br />
京都は大騒ぎになりました。京都に残って朝廷につこう！という武士や、尊氏殿を助けなければ！と鎌倉に飛んでいく武士。日本は朝廷軍VS足利尊氏と、真っ二つに別れたのです。 <br />
「おれ　知らないよぉ」by　弱虫尊氏 朝廷は新田義貞を総大将として朝廷軍を派遣しました。尊氏はというと、鎌倉で幕府を再興したくせに朝廷軍がやってくるというのを聞いて 自分が「朝敵」となったとわかると大ショック。<br />
<br />
朝廷軍はどんどんと進んできて、こちらも応戦の用意をしなければならないのに、肝心の尊氏がいつまでもグズグズ悩んでいるのです。直義らは怒りながら「どうするつもりなんですか！」と聞くと、「天皇に弓を引くのはイヤだよ。もし朝廷軍が鎌倉にやってきたら出家するよぉ。とりあえずオレ、謹慎して天皇の誤解を解く」と、鎌倉の浄光明寺にこもってしまったのです。直義は情けなくて涙が出そうでした。<br />
<br />
その後も尊氏は寺にこもって「オレ出家したい」「これからのコトは弟の直義に全てゆだねたい」などなど言い出し、ここで尊氏が引っ込んじゃてどうすんじゃーと直義らが必死に説得したんだけど「おれ知らない！天皇と戦うなら頭丸める（出家する）」とまで言われ、直義らは「今グチを聞いてる暇はない。敵はすぐそこまで来てるし」ってことで、尊氏抜きで戦うこととなったのです。<br />
<br />
高師直は「なんでそんなに天皇が好きなのかね？こうなっては仕方がない。直義殿が総大将となって朝廷軍と戦いましょう。ワシもお供します」と佐々木道誉（どうよ）上杉憲房らも直義を応援しました。そしてとりあえず「尊氏は病気になった」ということにしたのです。直義らは義貞に負けたら、また世の中が公家中心になっちゃうしってことで、ライバル義貞を徹底的に潰すぞ！何としても箱根越えだけはさせないぞゾ！と兵を出したのです。<br />
<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">直義ボロボロ・・・尊氏立ち上がる<br />
<br />
</font>戦下手の義貞ですが、この時は絶好調♪矢作川で両軍激突となりました。さらに佐々木道誉も新田側についちゃったりして、直義らは敗退し総崩れとなってしまったのです。箱根を越えられたら鎌倉がやられちゃうのは時間の問題。状況は極めて深刻なものとなりました。それでも尊氏は「あくまでも天皇の許しを待つんだ！」と行こうとはしませんでした。そこへボロ負けとなって血だらけの高師直がやってきました。高師直は「直義殿は箱根で最後の決戦の準備をしています。新田義貞は怒涛の勢いで鎌倉に迫っておりますぞ？」<br />
<br />
尊氏は「そうか・・・」とまだ弱気。ここで高師直が「新田軍はこんなものを持っていました」と尊氏に小さな錦の布を手渡した。それは天皇の綸旨で「たとえ尊氏が僧になったとしても、尊氏・直義兄弟は許さぬ。必ず討ち取れ」というものでした。尊氏はそれを見て涙ポロポロ。これは偽者か？と訪ねると、「こんな時に偽者を持ってきてどうするんですか！」と逆に高師直に怒鳴られた。ちなみにコレは偽物らしい・・・。<br />
<br />
この綸旨は尊氏の心を動かしました。「大好きな直義が死んでしまってはワシは生きている甲斐もなくなる。天皇に逆らう心は全くないが直義を見殺しにすることはできない・・・」と、立ち上がる決心をしたのです。こうして尊氏は兵を引き連れ箱根へ向かいました。箱根・足柄の戦いが繰り広げられたのです。ここで朝廷軍の塩谷高貞が足利軍に寝返ったため義貞らの負けが決定的になりました。<br />
<br />
義貞は箱根を引き上げ西へ敗走していったのです。当時の合戦は寄せ集めの兵が多かったため、兵らは負けたとわかったらさっさと逃げていきました。いつまでも負けた大将についていくような忠誠心は持ち合わせていなかったのです。義貞は直義が総崩れになったときに、追撃していればもしかしたら鎌倉を落とせたかもしれません。追いかけるのをやめ、途中で仲間の兵がやってくるのを待ってしまったので尊氏を潰すチャンスを失ってしまったのです。そして「義貞を追撃して京都へ攻め込め！」尊氏は号令し、武士たちは「おう！」と喚声をあげたのです。<br />
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<font style="BACKGROUND-COLOR: #ff9900">1335年12月　尊氏怒涛の勢いで京都へ！<br />
<br />
</font>義貞敗走の情報は諸国の武士へ伝わりました。すると朝廷から足利へ寝返る武士らが続々と出てきたのです。近江の京極家、美濃の土岐家、播磨の赤松家、九州の大友・島津家などなど。皆後醍醐天皇の建武の新政に不満を抱いており、尊氏が反旗を翻してくれるのを待っていたのでした。<br />
<br />
義貞らが京都に逃げ帰ってくると尊氏と直義は義詮を鎌倉にとどめ大軍を率いて、京都へ上洛するべく向かいました。途中恩賞が少なくって不満を持っていた赤松則村や細川定禅（じょうぜん）も加わり、勢いを得まくってとうとう京都へ。</p>]]>
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    <pubDate>Fri, 09 May 2008 02:46:20 GMT</pubDate>
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